身の回りの他人のために身銭を切る~身銭を切れ――「リスクを生きる」人だけが知っている人生の本質~


 

 

 

ここ数年、大きな潮目が来ていると、一部の知識人や前衛的な方々が語る「分権化」の潮流が、このような切り口で解説されることは、痛快でした。

 

“”システムを分権化(もう少し丁寧にいえば局所化) するよりほかに選択肢はない。失敗の代償を背負わなくてすむ意思決定者をなるべく少なくするしかないのだ。 分権化は、ミクロな たわごと よりもマクロな たわごと を言うほうが易しいという単純な事実を背景にして起こる。 分権化は、構造上の巨大な非対称性を和らげる。 ただ、心配はいらない。私たちが分権化や責任の分散を行わなくても、分権化はひとりでに起こる。それも、痛みを伴う形で。身銭を切るという機構が備わっていないシステムは、不均衡が累積していくと、やがて吹っ飛び、分権的な形で自己修復する。””

 

確かに、たしかに、これは自然の摂理のようなものかもしれないですね。

 

“”世界は情報の透明性を重視する方向へと向かっている。それは規制のおかげというよりもむしろ、不法行為法や、売り手にだまされたときに損害賠償を求められる制度のおかげだ。不法行為法は売り手に一定の身銭を切らせる。だからこそ、この法律は企業に忌み嫌われているわけだ。しかし、不法行為法には副作用もある。本来、不法行為法はまっとうな方法、つまり不正の利かない方法で使われるべきなのだが、あとで医師の診察の話で見るように、現実には不正が可能だ。””

 

“”事実、あるメカニズム(より専門的にいえば「バイアスとばらつきのトレードオフ」) によって、〝誤り〟を犯すほうがかえって全体的な結果がよくなることも多い。たとえば、的の中心からわずかに逸れた場所を固め撃ちするようなケースだ(図3を参照)。『反脆弱性』で示したとおり、発見につながるような種類の誤りを犯すのは、誤りの代償がほとんどない場合には、もっとも合理的な行動といえる。たとえば、医学の〝発見〟の大半は付随的なものだ。まったく誤りのない世界では、ペニシリンも、化学療法も、ほとんどの薬剤も、そしておそらく人間さえも生まれないだろう。 だからこそ、私は国家に行動を〝指図〟されるのには反対なのだ。〝間違った〟行動が本当に間違っているかどうかを知っているのは、進化だけだ。もちろん、自然選択が働くよう、私たちが身銭を切っているという条件つきの話だが。””

 

テクノロジーの進歩が、社会を激変させても、宇宙や地球が持つ自然法則に抗い続けることは出来ないという見方は、とても道理的だと思いました。

インターネットが、世界を平等にし、世界の距離を近づけ、僕たちは、より自由に、より幸せに生きることが出来るはずだった気がしますが、、、実際には、富の集中が、グローバル化というもっと目に見える変化と組み合わさって、ポピュリズムが高まって、民主主義が弱体化し、なんとも、格差と一言で語れないのだけど、世の中は、まだまだ問題や課題を抱え続けることになりそうですね。

 

※ファクトフルネス的なアプローチをする(データや事実にもとづき、世界を読み解いていく)なら、意外と、世界はより良くなり続けている、とも言えるのかもですが。

 

””いちばん説得力のある発言とは、本人が何かを失うリスクのある発言、最大限に身銭を切っている発言である。対して、いちばん説得力に欠ける発言とは、本人が目に見える貢献をすることもなく、明らかに(とはいえ無自覚に) 自分の地位を高めようとしている発言である(たとえば、実質的に何も言っておらず、リスクも冒していない大部分の学術論文はその典型例)。 でも、そこまで極端な考え方をする必要はない。見栄を張るのは自然なことだ。人間だもの。中味が見栄を上回っているかぎり、問題はない。人間らしく、もらえるだけもらえばいい。ただし、もらう以上に与えるという条件つきで。 厳密な研究ではあるが同僚たちの意見と食い違う研究、とりわけ、研究者自身が名声への被害や何らかの代償をこうむるリスクのある研究こそ、より重要視するべきだ。””

 

””リスクを負え 最後に、ひとつアドバイスを。ときどき、〝人類の役に立ちたい〟という若者が私のところへやってきて、「そのためにはどうすればいいでしょう?」と訊いてくることがある。彼らは「貧困を減らしたい」「世界を救いたい」といったマクロレベルの立派な夢を持っている。私のアドバイスはこうだ。 (1) 決して善をひけらかすな。 (2) 決してレントシーキングを行うな。 (3) 是が非でも ビジネスを始めよ。リスクを冒し、ビジネスを立ち上げろ。””

 

””リスクを冒すのだ。そして、もしも金持ちになったら(必須ではない)、他人のために惜しみなくお金を使えばいい。社会には、(有限の) リスクを冒す人々が必要だ。ホモ・サピエンスの子孫たちをマクロなもの、抽象的で普遍的な目的、社会にテール・リスクをもたらすような社会工学から遠ざけるために。ビジネスは、経済に大規模でリスキーな変化をもたらすことなく経済活動を行えるので、いいことずくめだ。開発援助業界のような機関も世の中の役に立つかもしれないが、害を及ぼす可能性も同じくらいある(これでも、楽観的に述べている。ほんの一握りの機関を除けば、結局のところ有害だと私は確信している)。 勇気(リスク・テイク) は最高の善だ。世の中には起業家が必要なのだ。””

 

“”身銭を切るという行為は、個人と集団の両方のレベルで、ブラック・スワンのような不確実性の問題を解決するのに役立つ。要するに、今まで生き延びてきたものは、ブラック・スワン的な出来事に対する頑健性を示している。しかし、身銭を切るという行為がなければ、そのようなふるい分けのメカニズムは働かない。身銭を切らなければ、「時の知性」((1)時は脆いものを排除し、頑健なものを生き長らえさせる、(2)脆くないものの余命は時がたつごとに長くなっていく、という性質を持つ) は働かない。思想は間接的に身銭を切っているし、その思想を抱く人々も同じく身銭を切っている。””

 

友人、知人、自分が属する共同体など、少しずつ身の回りの他人のために身銭を切れる人間になりたいと思わされました。

 

“”名誉ある行動には、もうひとつ別の次元がある。ただ身銭を切るのではなく、別の誰かのために身銭を切る、つまり他人のために自らリスクを負うケースだ。つまり、集団のために何か大きなものを犠牲にするわけだ。””