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未来は変えられる。運命なんてものはない。自ら作り上げるものだ。~AI時代の勝者と敗者~

 

 

 

2~3年前の自分が、ここまで多岐にわたる技術的変化の数々に対して、ほとんど何も準備することが出来なかったことに強い後悔を覚えている。確かに小さな兆しは、そこかしこに存在していた。必死に沢山のことに興味を持ってきたつもりだった。何十冊と慣れないタイプの書籍を読んできた。にも関わらず、何らかの具体的な仕込みがあったわけでもなく、ゆえに何らかの果実を手にしたわけでもない。つまり、「知っている」だけでは役に立たない。いかに自分が知識を行動に落とし込めていないかを痛感せざるを得ない事態が、この身の上に降り掛かってくる。

 

しかしまた同時に、もしも、この急激な社会変化を軽視していれば、「後悔」することさえなかったのかもしれない、とも思う。相当数の未来予測系書籍、最先端テクノロジー系書籍をマークしてきたからこそ、自分の不遜さを猛省することが出来ているとも言える。「まだ時間がある。自分は大丈夫。人間らしい仕事は残るはず。」今の自分には、その種の楽観的なスタンスよりも、予測不可能とも思える指数関数的な変革の時期に、ある程度の悲観的な態度で、自分の人生や自分たちのチームに責任を持つべきであろうと考えを改めるべきかもしれない。

 

 

””自動化は、人間の仕事を奪っていく。体系化できる仕事ならすぐにコンピュータに置き換え、人間の仕事を徐々に削り取っていく。コスト削減だけを目的にしており、管理者は現状以上の仕事をしようとは考えない。対照的に拡張は、人間と機械が個々に行っている仕事を、両者が協力してさらに発展させていく方法を探る。その意図は、コストも手間もかかる人間の仕事を減らすことにはない。人間の仕事の価値をこれまで以上に高めることにある。””

 

 

””今日、機械の台頭を怖れている知識労働者は多い。彼らの仕事を奪おうとするこの前例のないツールの可能性を考えれば、不安に思うのも当然だろう。だが、身のまわりで大規模な変化が展開されていたとしても、自分にはどうしようもないと考える必要はない。私たちが取るべき手段はある。私たち自身が優秀なものに仕立て上げた機械と新たなプラスの関係を築けるかどうかは、私たち次第である(一人ひとりという意味でも組織という意味でも)。人間と機械の力を組み合わせれば、それぞれの職場もこの世界も、かつてないほど過ごしやすい場所にできるのだ。””

 

 

”” AI時代の到来を恐れることはない。むしろ機械の進化によって私たちはより人間らしい生き方を享受できると考えるべきである。しかしそのためには、学習から得た知識だけでなく、経験から身につけた感性をより豊かにする努力が必要である。そしてスマートマシンが「人の仕事の自動化」のためのものではなく、「人の能力の拡張」であるととらえることにより、各々にとってのAI時代の勝者となるための道標が見えてくるであろう。””

 

 

今では、機械に取って代わられにくい「人間らしい」仕事に固執するよりも、上手く機械と協力していく道を選ぶべきという主張が最も腹落ちする。本書は、人間と機械が協力し、お互いの能力を発展させる方法を解説してくれる。機械に仕事を奪われるという思考停止的な論調で終えず、いかに機械と協力し、人間の仕事の価値を高めていくか、真剣に向き合わせてくれる。「人間らしさ」を追求するだけでなく「機械らしさ」を学び、実際に協力方法を模索し、実践していくことで、次の2~3年後には、「ああ、あの当時(2~3年前)、あのような決意をし、学び続け、行動し続けられたおかげで、いくつも仕込み、いくつもの果実を手に入れることが出来ている」そのように発言できるようありたい。

 

 

 

””スマートマシンの導入がプラスの結果をもたらすと考えたい。それには、現状への危機意識を高め、結果がプラスになるような決断を下すことが重要だ。ボストロムは、「解決するチャンスが何度も巡ってくるわけではない」から、すぐに重大な選択をしなければならないと考えているようだが、筆者はそうは思わない。一般的に、変革の時期の混乱を最小限に食い止めるには、長い時間をかけて変化させることが必要になる。カリフォルニア大学バークレー校でAIを研究するスチュアート・ラッセルは、スーパー知能を持つコンピュータは人間にとって脅威になるかと尋ねられ、こう答えている。「人工知能は、天気のように、晴れればいいなと思いながらただ眺めているだけのものとは違います。それがどんなものになるかは、私たちが決めるのです。したがってAIが人類にとって脅威となるかどうかは、私たちがそうするかどうかによります」。ラッセルは、楽観的な考え方をしているわけではない。AIを脅威としない方向へ進むよう呼びかけているのだ。””

 

 

 

The future is not set.
There is no fate but what we make for ourselves.
(Terminator 2 / Kyle Reese)

「未来は変えられる。
運命なんてものはない。自ら作り上げるものだ。」

(映画「ターミネーター2 特別編」/カイル・リースのセリフより)

 

 

 

 

 

目次

 

序 章 あらゆる仕事で機械との競争が始まった
スマートマシンの発展により、知識労働者の仕事が危機にさらされている。

第1章 私たちの仕事はコンピュータに奪われるのか?
ほとんどの仕事で機械のほうが有能になる。この脅威を真剣に受け止めるべきだ。

第2章 スマートマシンはどのくらい優秀なのか?
多くの面で機械のほうが人間より有能になっている。だが、人間の役割はまだある。

第3章 「自動化」ではなく「拡張」を
大切なのは、どの仕事が機械に奪われるかではなく、機械を使って人間はどんな仕事ができるかである。

第4章 ステップ・アップ
──自動システムの上をいく仕事 大局的に見られる人、十分なデータなしで判断できる人は、今後も機械よりも高いレベルで問題を解決する。

第5章 ステップ・アサイド
──機械にできない仕事 機械が得意でない作業を人間がする。人間との交流、人間への説明や説得など。

第6章 ステップ・イン
──ビジネスと技術をつなぐ仕事 機械の仕組みを理解し、監視し、改善する仕事は、人間の仕事として残っていく。

第7章 ステップ・ナロウリー
──自動化されない専門的な仕事 機械を導入しても経済的でないニッチな専門分野には、人間が活躍する仕事が残る。

第8章 ステップ・フォワード
──新システムを生み出す仕事 技術力を持ち、次世代のスマートマシンをつくる仕事は今後もなくならない。

第9章 「拡張」をどう管理するか?
企業にとって拡張は、競争を勝ち抜くのに欠かせない現実的な唯一の戦略である。

第10章 ユートピアかディストピアか
──スマートマシンにどう適応すべきか 拡張を重視すれば、教育政策や雇用創出政策なども変わる。

 

 

 

 

 

浪漫に満ち溢れた未来。~〈インターネット〉の次に来るもの 未来を決める12の法則 、ケヴィン・ケリー~

 

 

””しかし、しかし……ここで重要なことがある。インターネットに関してはまだ何も始まっていないのだ! インターネットはまだその始まりの始まりに過ぎない。それは何より〈なっていく〉ものなのだ。もしわれわれがタイムマシンに乗って30年後に行って、現在を振り返ってみたとすると、2050年の市民の生活を支えているすばらしいプロダクトのほとんどは、2016年には出現していないことに気づくだろう。未来の人々はホロデックやウェアラブルなVRコンタクトレンズ、ダウンロードできるアバター、AIインターフェースなどを見ながら、「あぁ、あの頃には、インターネット(その頃は何と呼んでいるのか知らないが)なんて、まるでなかったんだね」と言うだろう。

2050年の年寄りたちはあなたにこう語りかけるだろう。2016年当時にもしイノベーターでいられたなら、どんなにすごかったか想像できるかね、と。そこは広く開かれたフロンティアだったんだ! どんな分野のものも自由に選んで、ちょっとAI機能を付けて、クラウドに置いておくだけでよかったんだよ! 当時の装置のほとんどには、センサーがいまのように何百じゃなくて、一つか二つしか入っていなかった。期待値や障壁は低かった。一番になるのは簡単だった。そして彼らは「当時は何もかもが可能だった。そのことに気づいてさえいれば!」と嘆くのだ。””

 

なんてロマンチックなのだろう。これ以上の浪漫があるのだろうか。この世界の多くの人達は、只ならぬ変化の真っ只中にいることを、何となく分かっていても、何をすれば良いのかわからない。どうすれば比類なき、このビックウェーブに最高のタイミングで乗れるのかわからない。失敗して苦しむくらいなら様子を見る。要するに、波に巻き込まれて溺れ死ぬような度胸もない。だから慎重に慎重に最高のタイミングを見計らって、何度も乗り過ごしてる。見過ごしてる。

 

上手くうまく大波に乗って英雄になったサーファーたちに憧れ、時に嫉妬する。すでに何度も繰り返してきた光景だった。大きなうねりがある。今までに見たことがない大きな波になるかもしれない。今から準備しておけば、、、今しかない、、、そうやってパドリングをはじめる、パドリングを始めた瞬間、色々なことが頭に浮かんでくる、待てよ、、、体調は万全か?本当にここ波で良いのか?次の波の方が大きな波かもしれない、みんなもこの波を待ちわびていたんじゃないか?ライバルが多すぎるんじゃないか?そうだ、次の波まで待とう、そしたらライバルが少ないかもしれない、そうだそうだ。そんな都合の良い解釈を繰り返してきた。そんな自分の解釈に嫌気がさしている。もう十分に、待ちわびてきたじゃないか。そんな臆病な僕達に、賢者が語りかけてくれる。

 

“”居心地が悪くない世界はユートピアだ。しかしその世界は停滞している。ある観点から完全に正当に思える世界は、他の観点からは恐ろしく不公平だ。ユートピアには解決すべき問題はないが、チャンスもない。  ユートピアは絶対に上手くいかないので、われわれはこうした「ユートピアのパラドクス」に悩む必要はない。ユートピアのシナリオには、どれも自己崩壊につながる欠陥があるからだ。ユートピアに対する私の反感はさらに根深い。自分が住みたいと思えるような、想像上のユートピアにいままで出合った試しがない。どれも私には退屈なのだ。その正反対のディストピアの方が、よっぽど面白い。それに、想像するのもずっとやさしい。

地上に最後の一人しか残っていない黙示録さながらの世界や、ロボットの大君主が支配する世界、徐々にスラム街へと崩壊していく地球規模のメガシティーを想像できない人はいないし、最も簡単なシナリオとしては、核戦争によるアルマゲドンが考えられるだろう。現代文明が崩壊する可能性なら、いくらでも列挙できる。しかし、映画にできそうなドラマチックな話題で、想像するのがずっと容易だからといって、ディストピアが起こるかもしれないというわけではない。””

 

僕なりに解釈すると、僕達が妄想するようなユートピアや、ディストピアは極端なものであって、複雑に見えるこの世界は、いわゆる見えざる手のような何らかの生態系によってバランスされ、着地していくだろう、と。

 

“”プロトピアは〈なっていく〉ものなので、それ自体を見るのは難しい。それはプロセスであり、他のものの変化に常に影響を与え、自分自身を変え、変異しながら育っていく。変わり続けるゆるやかなプロセスに喝采を送るのは確かに難しい。でもそれが見えていくかどうかは重要だ。””

 

だけど、何らかのバランスされた秩序、無秩序な世界を、プロセスを見ようとするべきだし、見えていることは重要だよ、と示唆してくれている。

 

“”つまりこういうことだ。いまここですぐに、2016年から始めるのがベストだということだ。歴史上、何かを発明するのにこんなに良いときはない。いままでこれほどのチャンスや、いろいろな始まりや、低い障壁や、リスクと利得の格差や、収益の高さや成長が見込めるタイミングはなかった。いまこの瞬間に始めるべきだ。いまこそが、未来の人々が振り返って、「あの頃に生きて戻れれば!」と言うときなのだ。””

 

 

というわけで、素晴らしい機会に恵まれた時代に生きているなあ、と感謝しつつ、今、目の前にある幸せを噛みしめつつ、大それたことに、思いを馳せる前に、まずは何より、身の回りの事業やお客さん、共に働く仲間、友達、家族を大事にしていかないとな、と考えさせられる日曜の昼下がりでした。

 

 

 

 

【抜粋】

★われわれはAIについて、それが何を意味するのかを再定義してこなかった──人間にとってどういう意味があるかということだけを再定義してきたのだ。過去60年以上にわたり、人間に固有だと考えてきた振る舞いや才能を、機械的プロセスがそっくり再現してきたことで、われわれをそれらと分かつものは何かと絶えず考えてこなくてはならなかった。より多くの種類のAIが発明されれば、人間に固有だと思われていたものをさらに放棄せざるを得なくなるだろう。われわれだけがチェスを指せる、飛行機を操縦できる、音楽を作曲できる、数学の法則を発明できる、という考えを一つひとつ放棄することは、苦痛に満ちた悲しみだろう。これからの30年、もしくは次の世紀まで、人間は一体何に秀でているのかと、絶えずアイデンティティーの危機に晒されることになるだろう。もし自分が唯一無二の道具職人でないなら、あるいはアーティストや倫理学者でないならば、人間を人間たらしめるものはいったい何だろうか? 極めつけの皮肉は、日々の生活で役立つAIのもたらす最大の恩恵が、効率性の増大や潤沢さに根ざした経済、あるいは科学の新しい手法といったものではないことだ。もちろんそうしたことはすべて起こるだろうが、AIの到来による最大の恩恵は、それが人間性を定義することを手助けしてくれることだ。われわれは、自分が何者であるかを知るためにAIが必要なのだ。

 

★これはマシンとの競争ではない。もし競争したらわれわれは負けてしまう。これはマシンと共同して行なう競争なのだ。あなたの将来の給料は、ロボットといかに協調して働けるかにかかっている。あなたの同僚の9割方は、見えないマシンとなるだろう。それら抜きでは、あなたはほとんど何もできなくなるだろう。そして、あなたが行なうこととマシンが行なうことの境界線がぼやけてくる。あなたはもはや、少なくとも最初のうちは、それを仕事だとは思えないかもしれない。なぜなら退屈で面倒な仕事は管理者がロボットに割り振ってしまうからだ。  われわれはロボットに肩代わりしてもらう必要がある。政治家たちがいま、ロボットから守ろうとしている仕事のほとんどは、朝起きてさあやろうとは誰も思えないものだ。ロボットが行なう仕事は、われわれがいままでやってきて、彼らの方がもっと上手にできる分野のものだ。彼らはわれわれがまるでできない仕事もやってくれる。必要だとは想像もしなかった仕事もやってくれる。そうすることで、われわれが新しい仕事を自分たちのために見つけるのを手伝ってくれる。その新しい仕事が、われわれ自身を拡張していくのだ。ロボットのおかげで、われわれはもっと人間らしい仕事に集中できる。  それは不可避だ。ロボットたちには仕事を肩代わりしてもらい、本当に大切な仕事を頭に描くのを手助けしてもらおう。

 

★経験の価値は上がり続けている。高級なエンターテインメントは毎年%伸びている[222]。レストランやバーの利用は、2015年だけでも9%伸びた[223]。一般的なコンサートのチケット価格は、1981年から2012年までの間に400%伸びた[224]。これはアメリカにおける医療介護についても同じだ。それは1982年から2014年の間に400%伸びた[225]。アメリカにおけるベビーシッターの価格は時間当たり15ドルだが、これは最低賃金の2倍だ[226]。アメリカの大都市では両親が夜間に外出するとき、子どもの世話を頼むのに100ドルを払うのは当たり前だ。身体の経験そのものに個人的な注目を集中して振り向けるパーソナルコーチは、一番成長が著しい仕事だ。ホスピスでは、薬や治療の価格は下がっているが、在宅訪問といった経験が絡むものは高くなっている[227]。結婚式のコストは上限がない。それらはコモディティーではなく経験なのだ。われわれはそうしたものに、希少で純粋な注意を向けている。こうした経験をデザインするクリエーターにとって、われわれのアテンションには大いに価値がある。経験を創造したり消費したりするのに人間が優れているのも偶然ではない。そこにはロボットが出る幕はない。

 

★没入環境やVRの世界も将来は不可避的に、以前の状態に戻れるようになるだろう。実際のところ、デジタルであれば何でも、リミックスされるのと同様、やり直しや巻き戻し可能性を持つだろう。  もっと先の話としては、われわれはやり直しボタンが付いていない経験に我慢できなくなっていくだろう──たとえば食事といったものに。実際には食事の味や匂いを再度表現することはできない。でもそれが可能になったら、料理の世界を変えてしまうだろう。

 

★セカンドライフの成功は、想像力に富んだ仲間同士で交流できることで高まったが、社会の熱がモバイルに移行すると、スマートフォンではセカンドライフの洗練された3D世界を処理できず、多くのユーザーが他に移ってしまった。マインクラフトにはさらに多くの人が流れていった──高解像度ではないためスマートフォンでも使えたからだ。しかしセカンドライフに忠実なユーザーはいまだに何百万人もいて、想像上の3D世界の中を常時約5万のアバターが歩き回っている[255]。そのうちの半分はバーチャル・セックスをするためで[256]、それはリアルさを求めるというより付き合いに重点が置かれたものだ。セカンドライフの創設者フィル・ローズデールは数年前に新しいVRの会社を立ち上げ、オープンな擬似世界が生み出す社会的可能性を利用し、もっと納得できるVRを発明しようとしている。

 

★われわれと人工物との間のインタラクションが増えることで、人工物を物体として愛でるようになる。インタラクティブであればあるほど、それは美しく聞こえ、美しく感じられなければならないのだ。長時間使う場合、その工芸的な仕上がりが重要になる。アップルはこうした欲求がインタラクティブな製品に向けられていると気づいた最初の企業だ。アップルウォッチの金の縁取りは感じるためのものだ。結局われわれは、毎日、毎週、何時間もアイパッドをなで回し、その魔法のような表面に指を走らせ、スクリーンに目を凝らすことになる。デバイスの表面のなめらかな感触、流れるような輝き、その温かみや無機質さ、作りの仕上がり、光の温度感などが、われわれにとって大きな意味を持つようになるのだ。

 

★安価で潤沢になったVRは、経験の生産工場になるだろう。生身の人間が行くには危険過ぎる環境──戦場、深海、火山といった場所──を訪れることもできる。人間が行くことが難しいお腹の中や彗星の表面といった場所も経験できる。それに、性転換したり、ロブスターになったりもできる。また、ヒマラヤの上空を飛び回るような非常にお金がかかる経験も安価にできる。しかし経験というのは一般的に持続するものではない。われわれが旅行の経験を楽しめるのは、そこを訪れるのが短い期間だからでもある。VRの経験も、少なくとも当初は、ちょっと試してみる程度のものになるだろう。そのプレゼンスはあまりに強烈なので、ほんの少しだけ楽しめればいいとわれわれは思うかもしれない。それでも、われわれがインタラクションを強く求めるものに対しては際限がない。  こうした大規模ビデオゲームは、新しいインタラクションの草分けだ。無限の地平によって提示される完全にインタラクティブな自由は、こうしたゲームが生み出す幻覚だ。プレーヤーや観客は、やり遂げるべき任務を与えられ、最後までたどり着くように動機付けされる。ゲームでのそれぞれの行動が、物語全体の中で次の難関へとプレーヤーを導く仕掛けになっており、そうやってゲームの設定した運命がだんだんと明らかになるのだが、それでもプレーヤー個々の選択は、どんな種類のポイントを獲得していくかという点で意味がある。この世界全体にはある傾向があり、あなたが何度その中を探検したとしても、最後にはある不可避な出来事に行き当たるようになっている。運命付けられた話の展開と、自由意思で行なうインタラクションが正しいバランスになれば、「ゲームで遊んだ」という素晴らしい感覚が得られる──自分がより大きな何かの一部になって前に進んでいるが(ゲームの物語性)、それでもまだ自分が舵を握っている(ゲームのプレー性)という甘美な感覚が生まれるのだ。

 

★AIはVRやARの中にも別の形で入り込んでいる。あなたが実際に立っている物理的世界を見てマッピングすることで、あなたを合成された世界に運ぶのに使われるのだ。それにはあなたの物理的な身体の動きのデータも含まれる。AIは例えばオフィスであなたが座ったり立ったり動き回ったりしているのを、特別なトラッキング装置がなくても観察し、それをバーチャル世界に反映することができる。AIは合成された世界の中でのあなたの進む道筋を読んで、まるでちょっとした神のように、ある方向へと導くのに必要な手出しをするのだ。

 

★われわれが日中のほとんどの時間を過ごすこのセンサーだらけの現実世界を非バーチャルVRだと考えてみよう。周囲からトラッキングされ、また実際には自分でも定量化された自己をトラッキングしているので、VRと同じインタラクションの手法が使えるのだ。たとえば、VRで使うのと同じジェスチャーで、家電や自動車とコミュニケーションが取れる。インセンティブを作り出すゲーミフィケーションの手法を使えば、実際の生活でも参加者を好ましい方向に誘導することができる。日常生活がすべてトラッキングされているので、正しく歯磨きができたり、1万歩歩いたり、安全運転をしたりするたびにポイントが溜まる。クイズでいちいち良い得点を競わなくても、あなたのレベルは日々上がっていく。ゴミを拾ったり、リサイクルしたりすればポイントが得られる。VRの世界ばかりか、日常生活もゲーム化できるのだ。

 

★人間の一生のうちに社会に破壊的変化を起こす最初の技術的プラットフォームがパソコンだった。モバイルがその次のプラットフォームで、これは数十年のうちにすべてを革命的に変えてしまった。次に破壊的変化を起こすプラットフォームがVRで、まさにいま訪れようとしている。それではVRやARにプラグインするすぐ目の前の未来の1日について見てみよう。

★私はVRの中にいるが、頭には何も被っていない。2016年まで遡ってみて驚くのは、ベーシックで十分なARを体験するのに、ゴーグルやメガネさえ要らないことを予想していた人がほとんどいなかったことだ。部屋の隅の小さな光源から目に直接、3D映像が投影されるため、顔の前には何も着ける必要がない。VRのアプリは何万もあるが、ほとんどの場合これでクオリティーは十分だ。  ごく初期に私が入れたアプリは、ID情報のオーバーレイ・サービスだった。人の顔を認識し、彼らの名前や所属や、私との関係があればそれを表示してくれるものだ。いまではこれに慣れてしまい、外に行くときもこれなしには出かけられない。友人たちは、知らない人の素性でもすぐ分かる非正規IDアプリを使っているが、その場合、相手に失礼にならないように、自分が見ている表示が自分にしか分からないようなギアを着ける必要がある。

 

★私は友人から個人として扱われたい。こうした関係を保つには、友人が私のことを十分に理解して個人として付き合ってくれるよう、開放的で透明性を保ち、人生をシェアしなくてはならない。私は会社やお店にも自分を個人として扱ってほしいので、彼らが対個人として振る舞えるよう、開放的で透明性を保ち、情報をシェアしなければならない。政府にも個人として扱ってほしいので、そのために個人情報を開示しなければならない。パーソナライズすることと透明性を保つことには一対一の関係がある。よりパーソナライズするにはより透明性を持たなくてはならない。究極のパーソナライズ(虚栄)には、究極の透明性(プライバシーはない)が必要だ。もし友人や機関に対してプライバシーを保ち不透明な存在でありたいなら、自分という固有の条件は無視され、通り一遍の扱いを受けることを容認しなくてはならない。そうすれば、私は一般人のままだ。

 

★現在のソーシャルメディアが教えてくれるのは、シェアしたいという人類の衝動が、プライバシーを守りたいという気持ちを上回っているということだ。これは専門家をも驚かせた。今までのところ、選択ができる分岐点に来るたびに、われわれは平均的にはよりシェアし、よりオープンで透明な方向へと向かう傾向にある。それを一言で表すならこうだ──虚栄がプライバシーを凌駕している。

 

★夢が何のためにあるのかは分かっていないが、唯一言えるのは意識の根源的な欲求を満たしているということだ。私がウェブをサーフィンしているのを見た人は、次々と提示されたリンクをただたどっている姿を見て、白日夢を見ているようだと思うはずだ。最近私はウェブの中で、人々に混ざって裸足の男が土を食べているのを取り囲んで見ていたり、歌っている少年の顔が溶け出すのを見たり、サンタクロースがクリスマスツリーを燃やしたり、世界で最も高所にある泥の家の中を漂っていたり、ケルトの結び目文字が自然に解けたり、ある男から透明なガラスの作り方の講釈を受けたり、その次には自分自身を眺めていて、それは高校時代のことで、自転車に乗っているという具合だった。しかもそれは、私がある朝に数分間ウェブをサーフィンしていた間に見た話だ。どこに行くのかも分からないリンクをたどってトランス状態に陥るのは、大変な時間の無駄をして──あるいは夢を見て──いるように思えるかもしれないが、とても生産的な時間の無駄遣いなのかもしれない。多分われわれは、ウェブをうろついている間、集合的な無意識の中に入り込んでいるのだ。きっと、個々にクリックするものは違っても、このクリックが誘う夢はわれわれ全員が同じ夢を見るための方法なのだ。

 

★この新しいあり方──波を乗りこなし、飛び込み、駆け上がり、ビットからビットへ飛び回り、ツイッターでつぶやき、新しいことに難なく入り込み、白日夢を見て、あらゆる事実に一つひとつ疑問を抱くこと──は決して不具合ではない。そういう機能なのだ。それは押し寄せてくる大海のようなデータ、ニュース、事実に対する正しい反応だ。われわれは流動的でしなやかに、アイデアからアイデアへと渡っていくべきだ。というのも流動的であることが、われわれを取り巻く荒れ狂う情報環境への答えだからだ。こうした態度は何もせずに失敗することでも、贅沢に溺れることでもない。それは前に進むために必要なことなのだ。白いしぶきを上げる激流でカヤックを操るには、水の流れと同じぐらい迅速に漕がなくてはならないし、変化しながらあなたに向かって崩れてくるエクサバイト級の情報の波を乗り切るには、その波頭と同じ速さで流れていかなくてはならない。

これから何千年もしたら、歴史家は過去を振り返って、われわれがいる3000年紀の始まる時期を見て、驚くべき時代だったと思うだろう。この惑星の住人が互いにリンクし、初めて一つのとても大きなものになった時代なのだ。その後にこのとても大きな何かはさらに大きくなるのだが、あなたや私はそれが始まった時期に生きている。未来の人々は、われわれが見ているこの始まりに立ち会いたかったと羨むだろう。

 

★その頃から人間は、不活性な物体にちょっとした知能を加え始め、それらをマシン知能のクラウドに編み上げ、その何十億もの心をリンクさせて一つの超知能にしていったのだ。それはこの惑星のそれまでの歴史で最も大きく最も複雑で驚くべき出来事だったとされるだろう。ガラスや銅や空中の電波で作られた神経を組み上げて、われわれの種はすべての地域、すべてのプロセス、すべての人々、すべての人工物、すべてのセンサー、すべての事実や概念をつなぎ合わせ、そこから想像もできなかった複雑さを持つ巨大ネットワークを作ったのだ。この初期のネットから文明の協働型インターフェースが誕生し、それまでのどんな発明をも凌駕する、感覚と認知機能を持つ装置が生まれる。この巨大な発明、この生命体、このマシンとでも呼ぶべきものは、これまで他のマシンが作り上げてきたものをすべて包含し、実際にはたった一つの存在となってわれわれの生活の隅々にまで浸透し、われわれのアイデンティティーにとってなくてはならないものになる。このとても大きなものは、それまでの種に対して新しい考え方(完璧な検索、完全な記憶、惑星規模の知的能力)と新しい精神をもたらす。それは始まっていく

パーソナル・コンピューターの命名者でもあるアラン・ケイが言ったように、「未来は予測するものではなく発明するもの」であるなら、本書が述べるように「最高にカッコいいものはまだ発明されていない。今日こそが本当に、広く開かれたフロンティアなのだ。……人間の歴史の中で、これほど始めるのに最高のときはない」と考えることで、われわれは誰もが同じスタート地点に立って、この混迷した時代にきちんと前を向いて未来を変えていくことができるのではないだろうかと思う。

 

 

そう遠くない未来を予測するために。~限界費用ゼロ社会 <モノのインターネット>と共有型経済の台頭 ~

  数多の未来予測的書籍の中でも、ここまで包括的、統合的に、確固たるコンセプトを持って道標を提示してくれた本に出会ったことがありませんでした。 IoTにより限界費用ゼロの社会が到来した時、どのような社会になっていくのかを想像するのに最適な一冊。 すぐに実現する未来ではないかもしれないけど、僕達が生きているうちに、このような方向に世の中が向かっているのは確かだろうなあ、と参考になりました。

僕達は、諸説ある数十万年人類史の中でも、類まれに見る速度で指数関数的変化を体験できる世代であることは間違いなく、その変化が誰かにとっては幸福であり、誰かにとっては幸福ではない、というような局所的議論に終始するのではなく、人類という主語で、この大変化を俯瞰してみると、見えないものが見えてくると思います。

例えば、最近は、AIが、ロボットが、人間の仕事を奪うという表現が散見されますが、そもそも、人生の大半の時間を労働に費やすことなく、最低限の衣食住が保障される時代が来るとすると、未来の人間は、過去の人間(つまり僕達)の生活を振り返って、「ああ、昔は、大変だったんだなあ」と考えるのではないか?と。

 

””今から半世紀後、私たちの孫は、私たちがかつての奴隷制や農奴制をまったく信じられない思いで振り返るのと同じように、市場経済における大量雇用の時代を顧みることだろう。生活の大半が協働型コモンズで営まれるという高度に自動化された世界に生きる私たちの子孫にしてみれば、人間の価値はほぼ絶対的に当人の財やサービスの生産高と物質的な豊かさで決まるという考え方そのものが、原始的に、いや、野蛮にさえ思え、人間の価値をひどく減じるものとしてしか捉えようがないはずだ。””

 

パラダイムの変化は、突如として完全に変わるのではなく、じょじょに、その兆候が現れ、現代的なものと、未来的なものの狭間、キャズムに突き落とされ、生活が貧窮し、悲劇的な想いに打ちひしがれるような人達が、一定数存在することを、黙殺されるような社会はあまり好ましくないでしょう。

事が起きてから、対処するのでは遅いので、社会や国家、企業が時代の潮流を掴み、事前にスケープゴートを用意することが出来れば、きっと悲しみに暮れる人達の数を少しは減らせるのではないでしょうか。 他方、過去の歴史や、今、この時流を冷静に鑑みれば、数十年の間に、国家や共同体ごとの闘争がなくなるとは考えづらいし、資本主義的な構造が消滅するとは思えず、本書で提示している協働型コモンズのようなものが台頭するにせよ、それらが国家や超多国籍企業というの支配に抗うだけのパワーを持ちえるまでには、相当な時間を要するのではないか、とも懐疑的にならざるをえない。

確かに、今だけを切り取って見れば、一般的には綺麗事のように捉えられやすい全人類的視点、地球的視点というようなものが否定されにくい時代を迎えつつあり、限界費用がゼロに近づくにつれ、希少性に根付く過当競争が少しずつ弱体化し、同時に、シェアエコノミー、共有型経済が、人と人の繋がりに価値をもたせ、世界中の様々な人種の交流が激増し、世界がより平和な方向に向かっていると牧歌的に考えることも出来るのですが。

著者が言うには、現世代の大半は、生きているうちに、この潮流の変化を体感することになるだろうと確信していて、だからこそ、未来に悲観的になるよりも、来たる未来に備え、人類がより幸福に生きるために、やれるだけのことをやろうと、背中を押してくれる。 いずれにせよ、未来に悲観的であろうが、楽観的であろうが、様々なビジョンを一人ひとりが別々に持ちあわせ、未来を盛んに議論しうる時代は、非常に楽しい。

各人のパラダイムで物事を捉えながら、それぞれの多様性を認めて、それぞれの価値観によって自分のコミュニティを盛り上げていきたい。

 

 

【抜粋】

● 協働型コモンズは、所得格差を大幅に縮める可能性を提供し、グローバル経済を民主化し、より生態系に優しい形で持続可能な社会を生み出し、すでに私たちの経済生活のあり方を変え始めている。

 

● 「これからの年月には、『技術的失業』という言葉を何度となく耳にすることだろう。これは、労働力の新たな使途を発見しうる速さを、労働力の使用を節減する手段の発見が凌駕するために生じる失業を指す」。ただしケインズは、急いでこう言い添える。技術的失業は、短期的には人々を苦しめるものの、「人類が自らの経済の問題を解決していること」を意味するから、長期的には大いなる恩恵である、と。

 

● 機械がほぼ無料の財やサービスを潤沢に生み出し、人類を労役や苦難から解放し、そのおかげで人間が金銭上の利益にばかり心を奪われず、「いかに生きるべきか」や従来の枠を超えることの探求にもっと集中できるような未来の到来を待望していた。

 

● 私たちが営む経済生活にとってIoTが革新的なテクノロジーとなるのは、それが生物圏の複雑な構成の中へと人類が自らを再統合し、地球上の生態系を危うくすることなく劇的に生産性を上げるのを助けるからだ。循環型経済の中で地球の資源をより少なく、より効率的・生産的に使い、炭素系燃料から再生可能エネルギーへ移行するというのが、今出現しつつある経済パラダイムの決定的特徴だ。

 

● IoTの稼働システムの要は、コミュニケーション・インターネットとエネルギー・インターネットと輸送インターネットを、緊密に連携した稼働プラットフォームにまとめることだ。

 

● 資本主義市場は私利の追求に基づいており、物質的利益を原動力としているのに対して、ソーシャルコモンズは協働型の利益に動機づけられ、他者と結びついてシェアしたいという深い欲求を原動力としている。前者が財産権や買い手の危険負担、自主性の追求を促す一方、後者はオープンソース〔ソースコード(原型となる設計)の公開、無料または安価な配布、改変・再配布自由の共同利用形態〕のイノベーションや透明性、コミュニティの追求を奨励する。

 

● 協働型コモンズはすでに、経済生活に多大な影響を与えている。市場はネットワークに道を譲り始め、モノを所有することは、それにアクセスすることほど重要でなくなり、私利の追求は協働型の利益の魅力によって抑えられ、無一文から大金持ちへという従来の夢は、持続可能な生活の質という新たな夢に取って代わられつつある。

 

● 来るべき時代には、新しい世代が協働主義にしだいに共鳴するにつれ、資本主義と社会主義はともに、かつて社会に対して持っていた支配力を失うだろう。若い協働主義者たちは、資本主義と社会主義の原理の双方から長所を採り入れつつも、自由市場と官僚国家に共通の、中央集中化する性質を排除している。

 

● 台頭する協働型コモンズにおけるイノベーションと創造性の大衆化からは、金銭的な見返りを得たいという願いよりも、人類の社会的福祉を増進したいという欲求に基づいた、新しい種類のインセンティブが生まれつつある。そして、それが功を奏している。

 

● この新しいコミュニケーション/エネルギー/輸送マトリックスは、距離を縮めて時間を速め、何世紀もの間孤立していたさまざまな人を束ねて共同で経済的目的を追求させたばかりか、それによって、他者に対して従来は見られなかったほどまで心を開くことを奨励し、国家や民族にこだわらない考え方の拡がりを促した。何世紀も前から生活を貶めていた偏狭な愛郷心や外国人嫌いは徐々に消え始め、新しい可能性が拓けるという感覚が人間の心を捉えた。

 

● 二五年後には、あなたが家を暖め、家電製品を作動させ、職場の機器を動かし、車を走らせ、世界経済を隅々まで駆動させるのに使うエネルギーの大部分も無料に近くなる、と。それは、自宅や仕事場をマイクロ発電所に変え、その場で再生可能エネルギーを採取するシステムを早々と採用した数百万の人にとってはすでに現実だ。

 

● 二〇〇七年、さまざまな装置をIoTにつなぐセンサーは一〇〇〇万個あった。二〇一三年、その数は三五億を超えることになったが、さらに感心すべきは、二〇三〇年には一〇〇兆個のセンサーがIoTにつながると予想されていることだ。

 

● 一〇年以内にインターネットに接続するデバイスが二兆個の域に達するには、各人が「インターネットにつながるモノを一〇〇〇個」持つだけでよいというのだ。経済が発展した国々では、たいていの人がおよそ一〇〇〇個から五〇〇〇個のモノを持っている。法外な数に思えるかもしれないが、自宅や車庫、自動車、オフィスを見回して、電動歯ブラシに電子書籍、ガレージドア開閉装置、建物の出入り用の電子パスといったものを数えてみれば、自分がどれだけ多くのデバイスを持っているかに驚くものだ。こうしたデバイスの多くには、今後一〇年ほどの間にタグがつき、インターネットを使って自分のモノと他のモノとをつなげることになるだろう。

 

● 指数関数的増加は人の目を欺く。知らぬ間に増えてゆくのだ。一五日目になっても、たった一万六三八四ドルにしか達しておらず、即時に一〇〇万ドルの現金をもらうことを選んだのは正しかったと私は信じていた。だが、さらに六日分倍にし続けたときには驚いた。わずか六回、倍増を繰り返しただけで、数字はすでに一〇〇万ドルを超えていたのだ。さらに一〇日分続けてみて、衝撃を受けた。三一日目までくると、一〇億ドルを超えていた。なんと一〇〇万ドルの一〇〇〇倍以上だ。これには啞然とした。こうして私は指数関数的増加を初めて目の当たりにしたのだった。

 

● 将来のエネルギー源としての太陽光の計り知れない可能性を考えたとき、それが社会に及ぼす影響はなおさら著しいものとなる。人類は年間に四七〇エクサジュール〔エクサは一〇の一八乗〕のエネルギーを使う。これは、太陽が八八分間に地球に向けて放つエネルギーの量と等しい。地球に届く太陽エネルギーの〇・一パーセントを手に入れられれば、現在、グローバル経済全体で使われているエネルギーの六倍が得られることになるのだ。

 

● この運動を推進してきた原理としては、新しいイノベーションのオープンソースでの共有、協働型の学習文化の促進、コミュニティの自給自足という信念、持続可能な生産手法への傾倒の四つが挙げられる。

 

● 彼らのスローガンは、「グローバルに考え、ローカルに行動する」で、それは各自の地元コミュニティで持続可能な形で生活して地球を大切にすることを意味した。

 

● ガンディーにしてみれば、幸福は、個人の富を蓄積することではなく、思いやりと共感に満ちた人生を送ることに見出されるのだった。彼は次のように述べさえしている。「真の幸福と満足は……欲求の拡大ではなく意図的・自発的な削減にある」、そのおかげで、人は他者との親睦のうちに、より献身的な人生を送れる。彼はまた、自らの幸福論を地球に対する責任と結びつけていた。持続可能性が人気を博する半世紀近く前に、ガンディーはこう明言した。「地球はあらゆる人の必要を満たすだけのものを提供してくれるが、あらゆる人の強欲を満たすことはできない。

 

● 市場経済のあらゆる部門での仕事の自動化によって、すでに人間が労働から解放され、進化を続けるソーシャルエコノミーへと移行し始めている。市場経済時代には勤勉が重要だったが、来るべき時代には、協働型コモンズでのディープ・プレイ〔市場ではなくシビル・ソサエティで人々が才能や技能をシェアし、社会関係資本を生み出すことを意味する著者の用語〕がそれと同じぐらい重視され、社会関係資本の蓄積は、市場資本の蓄積に劣らぬほど尊ばれる。

 

● 重要なのは、コモンズは公共広場にとどまらず、外に向かって地球の生物圏の端々にまで拡がるという点だ。私たち人類は、地球を満たすさまざまな種から成る進化の拡大家族の一員だ。生態学は私たちに、個々の生物の繁栄があって初めて生物学的な家族全体も繁栄しうることを教えてくれている。共生関係、相乗作用、フィードバックによって、ある種の大規模なコラボレーションが生じ、それがこの拡大家族の活力を維持し、生物圏という大所帯を存続させてゆくのだ。

 

● 第三次産業革命における新体制は性質が大きく異なる。この体制は、それ以前の体制と比べると、金融資本はそれほど要らないが、より多くの社会関係資本を必要とし、垂直ではなく水平に展開し、厳密に資本主義的な市場の仕組みよりむしろコモンズ方式の管理で最もうまく機能する。社会は、開かれた、分散型・協働型で、ネットワーク化された形態をとるべく設計される度合いがしだいに増してゆくだろう。これはつまり、資本主義市場がこのまま生き残れるかどうかは、そうした社会体制に新たな効率性や生産性が見つかる世界で、価値を見出せるか否かにかかっているということだ。

 

● 自由とは人生を最大限活用できる能力であり、最高の人生は、一生の間にかかわりを持つさまざまなコミュニティで、多様な経験を積み、広範な人間関係を結ぶことによって実現できる。自由は市場における資産の所有よりも、ネットワークにおける他者へのアクセスによって評価される。人間関係が深く包括的であるほど多くの自由を享受できる。フェイスブックやツイッターなどのソーシャルスペースにおいて絶え間なく他者にアクセスできることは、人生に意味を与える。インターネット世代にとって自由とは、ピアトゥピアの世界で制限なく他者とコラボレーションする能力なのだ。

 

● ソーシャルエコノミーで指針となるのは、「買い手危険負担」ではなく、社会的信頼だ。そして、伝統的なコモンズの場合と同じく、新たな協働型コモンズも、社会関係資本を確保して協働の精神を築くために必要な社会的信頼を高いレベルで維持しようと、フリーライダーや妨害をする人々を罰し、さらには排除さえするような制裁を含め、さまざまな規約を試してきた。主要な協働型のソーシャルネットワークではほぼ例外なく、会員の信頼性を格付けする評価制度を設けている。市場経済における各人の支払い能力を格付けする従来の信用格付け制度とは異なり、評価制度はコモンズにおける各人の社会関係資本を格付けすることを目的とする。

 

● ベネフィット・コーポレーションは、社会的起業家精神という名称で緩やかに定義される、より大きなうねりの一部で、このうねりは世界中で経営大学院出身の若い世代の心を捉えている。社会的起業家精神は、コモンズの中心を担う非営利団体から市場の支配的事業体である従来の持株会社まで、幅広く網羅する。非営利団体と営利企業という二つのモデルは、ソーシャルエコノミーと市場経済が接する辺縁でかかわりを持つだけでなく、互いに相手の特質をいくらか採り入れているので、非営利事業と利益追求型事業の相違は曖昧になってきている。社会的起業家精神という大きな天幕の下、営利の世界と非営利の世界は、市場経済と協働型コモンズの双方から成る二層構造の商業空間に対応するため、あらゆる類の新たなビジネスの取り決めや規約を生み出しつつある。

 

● 遅くとも今世紀なかばまでには、世界の雇用者の半数以上が協働型コモンズの非営利部門に属し、ソーシャルエコノミーの推進に尽力する一方で、必要とする財やサービスの少なくとも一部を従来の市場で購入するといった状況になるのではなかろうか。そして伝統的な資本主義経済は、少数の専門職と技術職が管理するインテリジェント・テクノロジーによって運営されることになるだろう。

 

● 八〇年以上も前に孫たちに向けて記した先見性の高い評論の中で、ジョン・メイナード・ケインズは、人間が機械によって市場での苦役から解放され、より高邁で従来の枠を超えた目的を追い求めて、コモンズで意義深い文化的役割に従事する世界を見越していた。このビジョンは、ケインズの経済予測のなかでも最も正確なものとなるかもしれない。  当面の課題は、世界中でIoTインフラの大規模な整備が実施されることに伴って生じる、新たな職種や商機への移行を円滑に進めるために、既存の労働力を再教育したり、労働市場に参入する学生に適切な技能の育成を行なったりすることにある。一方学生たちは、協働型コモンズで新たに提供される雇用機会に見合った、これまでにない専門技能を身につける必要があるだろう。これには一方ならぬ努力が求められるだろうが、そのような努力ができることを、人類はこれまでにも身をもって証明してきた──とりわけ、一八九〇年から一九四〇年にかけて、農業から工業へと生活様式が急激に移行したときがそうだった。

 

● 俗に「共感ニューロン」と呼ばれるものだ。人間に近い数種の霊長類やゾウも共感ニューロンを有するが、その他の種についてはまだわかっていない。ミラーニューロンとその他の神経回路が相まって、私たちは他者の感情を自分のものとして経験することができる──理性的にだけでなく、生理的にも、情動的にも。たとえば、誰かの腕をクモが這い上がってゆくのを眺めていたら、私も自分の神経回路網で、クモが自分の腕を這い上がっているかのように感じるだろう。私たちはこうした日常的な感覚を当たり前だと思っているが、他者を自分自身として経験する──その喜びや恥ずかしさ、嫌悪感、苦しみ、恐れを感じる──この生理的能力こそ、私たちを現在のような社会的存在にしているという事実は、ようやく理解され始めたばかりだ。共感を覚える能力があればこそ、私たちはしっかりと統合された社会に組み込まれ、自分の延長として相手に接することができる。共感という感覚をまったく欠き、他者への思いやりや配慮がまったく見受けられない振る舞いをする人物の話を聞くと、私たちは人間味がないと思う。社会病質者は、究極のつまはじき者となるのだ。 ● 物質主義的行動と、共感という動因の抑圧もしくは消失に密接な相互関係があることは、さまざまな調査によって繰り返し示されている。冷淡で自分勝手、サディスティックで思いやりに欠ける親の元で育ったり、精神的虐待や体罰を受けたりした子供たちは、長じて攻撃的になって人を利用したり、逆に殻に閉じこもって孤立したりする場合が多い。そうした子供の共感の働きは抑え込まれ、恐れや不信、見捨てられたという感覚に取って代わられる。対照的に、愛情深く、相手に敏感に反応しながら幼児を養育でき、自我の発達を促す安全な環境を子供に提供できる親は、共感性の開花に欠かせない社会的信頼感を伸ばしてやれる。

 

●共感に触れる機会を持たずに成長した子供たちは、大人になったときに他者に共感を示せない場合が多い。最も基本的なレベルで他者と関係を築くことができず、彼らはまったく孤立無援の存在になる。物質主義は彼らにとって、喪失感を埋めるためのささやかな代替手段となる。モノへの執着が、人間に対する愛着の喪失を埋めるのだ。物質的成功や名声、注目されることへのこだわりもまた、社会に受け容れてもらうための方策となる。

 

● 有意義な生活を送っていると答えたミレニアル世代の若者のほうが、「自分を他者志向だと見なしている──より具体的には、与える者であるがゆえにそう考えている」ことが判明した。他者のために何かをすることが自分にとって重要だと言う人々のほうが、「自分の人生にはより大きな意義がある」と答えた。

 

● 物質主義的精神の衰退は、持続可能性や環境保全の取り組みの拡大にも反映されている。物質主義者たちが仲間の人間だけでなく、地球の生物や地球環境全般にもあまり共感を示さないとしても、驚くには当たらない。彼らはあくまで功利的な立場から、自然を利用するべき資源と捉え、保全すべきコミュニティとは見なさない。彼らにとって、環境は他者との関係と同じく、有用性と市場価値によってのみ評価されるもので、その本質的な価値は一顧だにされない。

 

● 潤沢さが稀少性に取って代われば、明日がどうなるか不安で、なんとしてもより多くのモノを手に入れようとする執拗なまでの衝動から、人間の気質のかなりの部分が解放される可能性が高いということだ。稀少性の経済を潤沢さの経済に転換するという発想は一見したところ、地球に残された恵みを手当たり次第に消費し尽くす事態を招く危険性を想起させるかもしれないが、実際には、これまでに述べた数々の理由により、地球上で私たち人類が持続可能な未来を確実に手に入れるための、唯一の有効な道である可能性が高い。

 

● 「私たちは今、第三次産業革命の幕開けに臨んでいると思われるので、UNIDOのすべての加盟国に、このメッセージを聞いて、『どうすればこの革命の一翼を担えるか』という重要な問題について考えていただきたかった」。目標は、二〇三〇年までに誰もが電力を利用できるようにすることだ。地球上のあらゆるコミュニティに電力が供給されれば、世界の貧しい人々が貧困から抜け出し、万人がまともな生活の質を保てる程度の快適さを手に入れるための弾みとなるだろう。

 

●人類史における経済の大パラダイムシフトは、コミュニケーション革命とエネルギー体制を新しい強力な形態に統合し、社会の経済生活を一転させるだけではない。新たなコミュニケーション/エネルギー/輸送マトリックスは必ずや、人間の意識をも転換し、共感の動因を時間的・空間的により広い領域へと拡大して、いちだんと大きな比喩的家族や相互依存を深めた社会という形で人々を団結させるはずだ。

 

● 枢軸時代の主要宗教はどれも、「人にしてもらいたいと思うことを人にもしなさい」という黄金律を生んだ。このように、共感という感性が宗教的帰属を基礎にした架空の拡大家族にまで拡がったおかげで、灌漑農業による生産と書字が一つになって誕生した、時間的・空間的に以前よりずっと広い新たな文明の領域全体で、多くの人々が社会的な絆を育むことが可能になった。

 

● 人類の歴史的なナラティブには別の側面がある──人間の意識の進化と、より広く包括的な領域への共感の拡大こそがそれだ。記録にこそ残されてはいないが、人類史には、たえず自己の枠を超えて、いっそうの進化を遂げた社会的枠組みの中にアイデンティティを見出そうとする人間の衝動によってもたらされた、幸福で調和のとれた時代が含まれている。

 

● 人類の歩んだ歴史を振り返ると、幸福は物質主義ではなく、共感に満ちたかかわりの中に見出されることがわかる。人生の黄昏時を迎えて来し方を振り返ったとき、記憶の中にはっきりと浮かび上がるのが物質的な利得や名声、財産であることはほとんどないだろう。私たちの存在の核心に触れるのは、共感に満ち溢れた巡り会いの瞬間──自分自身の殻を抜け出して、繁栄を目指す他者の奮闘を余すところなく、我がことのように経験するという超越的な感覚が得られた瞬間なのだ。  共感の意識は、ユートピア的な理想主義と混同されることがままあるが、それは実際には正反対のものだ。あなたや私が、他の人間であれ他の生物であれ他者に共感を抱くとき、そこには相手にいずれ訪れる死の気配と、目の前に存在する命に対する称讃が漂っている。相手の喜び、悲しみ、希望、恐れを感じ取っている間、私たちの命はどれも心もとないものであることが、私にはしきりに思い出される。他者に共感するとは、自分の命に対するのと同じように相手の唯一無二の命を認識すること──それが文明社会を生きる人間であれ、森の中で暮らすシカであれ、彼らの時間も自分の時間と同じく、巻き戻しも繰り返しもできず、生ははかなく、不完全で、困難なものであると理解することだ。共感を抱いているとき、私は相手の存在の脆さとはかなさを感じる。共感を抱くとは、他者が繁栄するよう応援し、相手の短い生涯に秘められた可能性のすべてを自ら実感することだ。思いやりとはすなわち、地球上で生命の旅をする仲間として連帯の絆を認めて、互いの存在を祝福する私たちなりの方法なのだ。  天国に共感は必要なく、ユートピアに共感の入り込む余地はない。というのも、こうした異世界には、悩みも苦しみも、弱さも欠点もなく、完璧さと不死があるのみだからだ。共感溢れる文明社会で仲間とともに生きるということは、互いの力になり、思いやりを通して、不完全な世界で繁栄に向かって邁進する互いの奮闘をたえず称え、それによって、私たちがはかない存在であるという現実を認め合うことを意味する。最高に幸せな瞬間とはつねに、最も大きな共感を覚える瞬間にほかならないことを、ほんのわずかでも疑う者がいるだろうか?

 

● 生物圏意識  こうした事柄はどれも、人類の個人としての幸福と集団としての幸福を推進するという問題に、私たちを立ち返らせる。人類の将来の見通しに、そして種として存続する能力についてさえももはや希望を抱けない人々──加えて、ある程度の集団的な幸福の確保となるといっそう心もとない人々には、私はこう問いかけてみたい。どうしてここで歩みを止めるのか? 人々が共感に満ち溢れて関与し、協働して管理する、より包括的な領域へ私たちを導いてきた旅路に終止符を打つことなどできるだろうか、と。私たちが神話的意識から神学的意識へ、さらにはイデオロギー的意識、心理的意識へと移り変わり、共感の動因を血縁から宗教的つながりへ、そして国民としてのアイデンティティ、共通点を持つ人々のコミュニティへと拡大してきたのだとしたら、人類の旅路における次の飛躍を思い描くことも可能ではないか──生物圏意識に移行し、共感の対象を拡大して、人類全体を自らの家族とするのみならず、進化上の家族の延長として仲間の生物たちも含めることができるのではないだろうか? ● 双方向型のコミュニケーション、エネルギー、輸送の各インターネットから成る新たなスマートインフラは、Wi‐Fiのようにノードを介して地域から地域へと拡がり、大陸をまたいで社会を結びつけ、広範に及ぶグローバルなニューラルネットワークを形作りつつある。IoTであらゆるモノをあらゆる人と結びつけるのは、人類史を転換する一大事件で、人類全体が史上初めて、人間という一つの大家族として共感し合い、親交を持つことを可能にする。

 

● 協働の感性とは、各人の存在は相互に密接に結びついており、個人の福祉は最終的に、私たちが暮らすより広いコミュニティの福祉にかかっていることを認識する能力だ。

 

● 若者たちが新たに見出した開放性は、性別や社会階級、人種、民族、性的指向などによって長い間人々を隔ててきた壁を打ち壊しつつある。共感という感性は、グローバルなネットワークがあらゆる人々を結びつけるのと同じ速さで、水平に拡大中だ。共感が、社会が真に民主的であるかどうかを判定する究極の試金石となった今、何億もの、いやことによると数十億もの人が、「他者」を「自分自身」として経験し始めつつある。そこまでは目にはつかないものの、何百万もの人、とりわけ若者たちは、極地をさまようペンギンやホッキョクグマから、わずかに残された手つかずの原初の生態系に暮らす絶滅の危機に瀕した種に至るまで、人間の同胞たる動物たちにも、その共感の動因を拡大する方向に動きだしている。若者たちは、生物圏というコミュニティに心地良く収まった共感の文明を構築する機会の一端を、ようやく目にし始めたところだ。

 

● 起業家は成功したいのなら、他者の幸福に敏感でいるほうが得なのだ。