「次の世界」で生きるということ ~これからの世界をつくる仲間たちへ 、落合陽一~


 

メディアアートというユニークな研究分野で、グローバルに活躍をしている若き日本の研究者、兼、実業家、落合陽一氏の書籍。

 

 

本書は、テクノロジーの指数関数的進化が引き起こす世界に、どんな人財が活躍するだろうか?という問いに対する1つの答えみたいなものを、著者らしい視点で、シンプルに、分かりやすく説明してくれています。

陳腐な例になってしまいますが、「AIが職を奪うぞ」的イシューに関してなんかも、とても分かりやすく持論を述べてくれています。

 

””よく人工知能が職を奪うという恐怖を掻き立てる表現とともに語られますが、ほんとうの問題は、どのようにして人の良いところと人工知能の良いところを組み合わせて次の社会に行くのかということだと思います。つまり迎合や和解のために知らなくてはいけない隣人の性質について考えないといけません。コンピュータとの〝文化交流〟が必要なのです。””

 

 

「次の世界」では、僕たちが、どんな能力を身に着けていくべきか?

 

“”「次の世界」に向けて、どんなことを学ぶべきかを考えるのは本当に難しいことです。ただ基本的には、「コンピュータには不得意で人間がやるべきことは何なのか」を模索することが大事だと言えます。それはおそらく、「新奇性」や「オリジナリティ」を持つ仕事であるに違いありません。少なくとも、処理能力のスピードや正確さで勝負する分野では、人間はコンピュータに太刀打ちできない。””

 

 

例えば、「モチベーション」の必要性。

 

””コンピュータに負けないために持つべきなのは、根性やガッツではありません。コンピュータになくて人間にあるのは、「モチベーション」です。  コンピュータには「これがやりたい」という動機がありません。目的を与えれば人間には太刀打ちできないスピードと精度でそれを処理しますが、それは「やりたくてやっている」わけではないでしょう。いまのところ、人間社会をどうしたいか、何を実現したいかといったようなモチベーションは、常に人間の側にある。だから、それさえしっかり持ち実装する手法があれば、いまはコンピュータを「使う」側にいられるのです。””

 

””最初に述べたように、コンピュータには「モチベーション」がありません。そこが人間との大きな違いです。だから、モチベーションのない人間は発達したコンピュータにいつか飲み込まれてしまう。逆に、「これがやりたい」というモチベーションのある人間は、コンピュータが手助けしてくれます。””

 

 

対AIに関する文脈でなくても、「どのように生きていきたいか?何を望もうとするか?」という類の意志、欲求があるかないかが、人間の生き様を決めるというのは、よく語られることですね。

 

今後、さらに、AI的なテクノロジーが発展するにつれ、一定層の労働者の仕事がなくなるというタイミングでも、流されるままに生きているだけでは被害者の側に回らざる終えない可能性もあるかもしれません。

 

また、さらに未来のとある段階では、単に労働が奪われて困るという状態から、ベーシックインカムのようなものが本格導入されると言われています。そのタイミングでは、一定層の人たちは無理に働かなくても良い時代となっている代わりに、意外なことに全く働かなくなって良い状態になると、退屈過ぎて、幸福を感じにくい社会になるであろうと予測されることもあります。

 

いずれにせよ、人生というものに目的を持つみたいなことがより一層、重要になる社会が訪れることになるであろうと言われていて、著者は、このような時代の流れの中で、より主体的に生き抜くための具体的なアドバイスをシンプルに述べてくれています。

 

””重要なのは、「言語化する能力」「論理力」「思考体力」「世界70億人を相手にすること」「経済感覚」「世界は人間が回しているという意識」、そして「専門性」です。これらの武器を身につければ、「自分」という個人に価値が生まれるので、どこでも活躍の場を見つけることができます。  何より「専門性」は重要です。小さなことでもいいから、「自分にしかできないこと」は、その人材を欲するに十分な理由だからです。専門性を高めていけば、「魔法を使う側」になることができるはずです。””

 

 

””クリエイティブ・クラスには専門性が不可欠ですが、そのレンジが狭すぎると失敗の確率が高まります。だから、レンジをある程度広くとった「変態性」が重要です。””

 

とまあ、世間一般的には、オタク的な存在、マイノリティとして扱われそうな「変態性」が見え隠れするような人たちゆえに、成し遂げられることがある、と。

 

””いつまでもマジに考え続けること、好奇心とテンションを高めに設定し続けること、要領よく子供であること。素人思考を保つためになるべくまっさらな気持ちでモノに向き合えると良いと、僕は思っています。””

 

確かに、明らかに普通ではない、平均的ではないと世間から捉えられるくらいの執着心がある人たちには、こういう共通項があるように思います。

 

この書籍にあるような主張を見て、聴いて、自分自身の拘り具合が、常軌を逸するレベルからは、まだまだかけ離れているなあと考えさせられました。事業を創ることに、もっともっと純粋になって、生きていきたいと思います。

 

【抜粋】

● クリエイティブ・クラスは、研究者であれ、起業家であれ、自分が理解できるまできちんと相手の話を聞きます。ちょっと聞いてその価値がわからなければ、自分から問いを発して話を掘り下げていく。自分の理解が間違っているのか、相手に価値がないのかを見極めるまで、会話をやめません。  だからこそ、そのハードルを越えて世界を変えるには、厳しい議論に耐えられるだけの論理的なコミュニケーション能力が求められます。そのために必要なのは、きれいな英語を話す「語学力」ではありません。もちろん、コンピュータを動かすプログラミングのスキルでもない。解決したい問題について自問自答をくり返す思考体力が根底になければ、「世界を回している人間」を動かすことはできないのです。

 

● クリエイティブ・クラスに必要な専門性は、そのモチベーションと表裏一体のものだといえるでしょう。「これが好きだ」「この問題を解決したい」という強烈な興味や好奇心が、その人の専門性の源泉になります。そういうモチベーションがないかぎり、掘り下げるべき専門性は身につきません。

 

人は歳を取れば取るほど「何のために生きるのか」を考えなくなり、目の前の幸福や不幸に右往左往しながら暮らしていくものですが、信念を持っている人間はその問いへの明確な答えを持つことができます。それは、「いまできる人類の最高到達点に足跡を残す」ということです。これはちょっとマッチョな、筋肉質な考え方だとも言えますが、少なくとも僕はそれしか考えていませんし、研究者や芸術家をはじめとするクリエイティブ・クラスはおそらく誰もがそういったものを持っているでしょう。自分の価値=オリジナリティと専門性を活かして、これまで人類が誰も到達できなかった地点に立つ。それが、僕の生きる意味であり価値だと思っています。

 

世界に変化を生み出すような執念を持った人に共通する性質を僕は「独善的な利他性」だと思っています。それは、独善的=たとえ勘違いだったとしても、自分は正しいと信じていることを疑わず、利他性=それが他人のためになると信じてあらゆる努力を楽しんで行うことができる人だと思います。そのためには、まず猿真似でもいいから始めること、そして自分の視座を執念深く追求し、興味を見つけ極めていくことが重要なので、たくさんの知識を貪欲に吸収してオリジナリティを追求していって欲しい。それはこれから先、いつの時代でも幸福な生き方だと思います。

 

 

 

※2016年5月15日読了、未投稿分

 


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