人をほかの人びとから隔てている壁をぶち破って結びつけていく~愛するということ、エーリッヒ・フロム~


皆さんは、「愛は、愛するということは、技術である」なんて考えたことがあるだろうか。この書籍のタイトルを一瞥して、中身を覗いてみようとさえしない日本人は多そうな気がするのですが、本当に学びに溢れていました。

”読む者の人生経験が深まるにつれて、この本は真価を発揮すると思う” と谷川俊太郎さんが仰られていた通り、いやはや、10代後半だったか20代前半に読んだ時とは、全く異なる読書体験をすることが出来たように思います。

それにしても、自分が、家族や社員、友人、社会を、世界を愛することが出来ているのか?とエーリッヒ・フロムさんに問われると、まだまだ足りないなあと思うわけです。

””愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏みこむ」ものである。愛の能動的な性格を、わかりやすい言い方で表現すれば、愛は何よりも 与える ことであり、もらうことではない、と言うことができよう。””

””共棲的結合とはおよそ対照的に、成熟した 愛 は、 自分の全体性と個性を保ったままでの結合 である。愛は、 人間のなかにある能動的な力 である。人をほかの人びとから隔てている壁をぶち破る力であり、人と人とを結びつける力である。愛によって、人は孤独感・孤立感を克服するが、依然として自分自身のままであり、自分の全体性を失わない。””

””人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、 ほんとうは、 無意識のなかで、 愛することを恐れているのである。  愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない。””

何の保証もない中で行動を起こす、相手に求めず、自分らしさを失わず、人に与え、人と人を結びつける力なんぞ、自分が持ち得ているとは到底思えないのですが、だからこそ、愛を、愛するということを学び、強い信念を創り上げていくしかないのだとも思います。

益々分断が拡がる、この時代に、家族を、社員を、友人を、社会を深く愛して、人をほかの人びとから隔てている壁をぶち破っていく、というのは、人生をかけて追求しがいのある挑戦だなあと感じました。

””愛することをやめてしまうことはできない以上、愛の失敗を克服する適切な方法は一つしかない。失敗の原因を調べ、そこからすすんで愛の意味を学ぶことである。  そのための第一歩は、生きることが技術であるのと同じく、 愛は技術である と知ることである。どうすれば人を愛せるようになるかを学びたければ、他の技術、たとえば音楽、絵画、大工仕事、医学、工学などの技術を学ぶときと同じ道をたどらなければならない。””

””技術を習得する過程は、便宜的に二つの部分に分けることができる。一つは理論に精通すること、いま一つはその習練に励むことである。もし医学を習得したければ、まず人体やさまざまな病気についての多くの事実を学ばなければならない。しかし、そうした理論的知識をすべて身につけたとしても、それだけでは医学を身につけたことにはならない。実際の体験を山ほど積んで、理論的知識の集積と実践の結果が一つに融合し、自分なりの直観が得られるようになったときにはじめて、医学をマスターしたといえるのだ。””

””孤立しているという意識から不安が生まれる。実際、孤立こそがあらゆる不安の源なのだ。孤立しているということは、他のいっさいから切り離され、自分の人間としての能力を発揮できないということである。したがって、孤立している人間はまったく無力で、世界に、すなわち事物や人びとに、能動的に関わることができない。つまり、外界からの働きかけに対応することができない。このように、孤立はつよい不安を生む。””

””人間のもっとも強い欲求とは、孤立を克服し、孤独の牢獄から抜け出したいという欲求である。この目的の達成に 全面的に 失敗したら、発狂するほかない。なぜなら、完全な孤立という恐怖感を克服するには、孤立感が消えてしまうくらい徹底的に外界から引きこもるしかない。そうすれば、外界も消えてしまうからだ。””

””どの時代のどの社会においても、人間は同じ一つの問題の解決に迫られている。いかに孤立を克服するか、いかに合一を達成するか、いかに個人的な生活を超越して他者との一体化を得るか、という問題である。””

””現代の西洋社会でも、孤立感を克服するもっとも一般的な方法は、集団に同調することである。集団に同調することによって、個人の自我はほとんど消え、集団の一員になりきることが目的となる。もし私がみんなと同じになり、ほかの人とちがった思想や感情をもたず、習慣においても服装においても思想においても集団全体に同調すれば、私は救われる。孤独という恐ろしい経験から救われる””

””生産的活動で得られる一体感は、人間どうしの一体感ではない。祝祭的な融合から得られる一体感は一時的である。集団への同調によって得られる一体感は偽りの一体感にすぎない。完全な答えは、人間どうしの一体化、他者との融合、すなわち 愛 にある。 自分以外の人間と融合したいというこの欲望は、人間のもっとも強い欲望である。それはもっとも根源的な熱情であり、この欲望こそが、人類を、部族、家族、社会を結束させる力である。融合を達成できないと、発狂するか、破滅する。自分が破滅する場合もあるし、ほかの人びとを破滅させる場合もある。この世に愛がなければ、人類は一日たりとも生き延びることはできない。””

””たとえば、つよい不安と孤独感にさいなまれて休みなく仕事に駆り立てられる人もいれば、野心や金銭欲から仕事に没頭する人もいる。どちらの人も情熱の奴隷になっており、彼の活動は、能動的に見えてじつは「受動的」である。自分の意志ではなく、 駆り立てられて いるのだから。””

””幼稚な愛は「愛されているから愛する」という原則にしたがう。成熟した愛は「愛するから愛される」という原則にしたがう。未成熟の愛は「あなたが必要だから、あなたを愛する」と言い、成熟した愛は「あなたを愛しているから、あなたが必要だ」と言う。””

””ほとんどの人は、愛を成り立たせるのは対象であって能力ではないと思いこんでいる。それどころか、誰もが、「愛する」人以外は誰も愛さないことが愛のつよさの証拠だとさえ信じている。これは、私たちが先に述べたのと同じ誤りである。””

””誰かを愛するというのはたんなる激しい感情ではない。それは決意であり、決断であり、約束である。もし愛がたんなる感情にすぎないとしたら、「あなたを永遠に愛します」という約束にはなんの根拠もないことになる。感情は生まれ、また消えてゆく。もし自分の行為が決意と決断にもとづいていなかったら、私の愛は永遠だなどと、どうして言い切ることができよう。””

””愛するという技術に関していえば、こういうことになる――この技術に熟達したいと思ったら、まず、生活のあらゆる場面において規律と集中力と忍耐の習練を積まなければならない。””

””いうまでもなく、いちばん集中力を身につけなければならないのは、愛しあっている者たちだ。ふつう、二人はさまざまな方法でたがいから逃げようとするが、そうではなく、しっかりとそばにいることを学ばなければならない。集中力を身につけるための習練は、最初のうちはひじょうにむずかしい。目的を達成できないのではないかという気分になる。したがって、いうまでもないことだが、忍耐力が必要となる。何事にも潮時があるということを知らず、やみくもに事を急ごうとすると、集中力も、また愛する能力も、絶対に身につかない。忍耐力がどういうものかを知りたければ、懸命に歩こうとしている幼児を見ればいい。転んでも、転んでも、転んでも、けっしてやめようとせず、だんだん上手になって、ついには転ばずに歩けるようになる。おとなが自分にとって大事なことを追求するのに、子どもの忍耐力と集中力をもってすれば、どんなことでもなしうるのではなかろうか。””

””客観的に考える能力、それが理性である。理性の基盤となる感情面の姿勢が 謙虚さである。子どものときに抱いていた全知全能への夢から覚め、謙虚さを身につけたときにはじめて、自分の理性をはたらかせることができ、客観的にものを見ることができるようになる。””

””自分自身を「信じている」者だけが、他人にたいして誠実になれる。なぜなら、自分に信念をもっている者だけが、「自分は将来も現在と同じだろう、したがって自分が予想しているとおりに感じ、行動するだろう」という確信をもてるからだ。自分自身にたいする信念は、他人にたいして約束ができるための必須条件である。””