発達とは包み込むこと。越えて含むこと。アンセルフィッシュな生き様~インテグラル理論 多様で複雑な世界を読み解く新次元の成長モデル~


2022/9/26頃。

まさに、「新次元」という表現に相応しい新たな思考の枠組みを頂くことが出来ました、素晴らしい書籍に出会えて、本当に有り難い、感謝感激であります。

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2022年は、「見えないものを見る」、「見えないものが見えた」、シンボリックな1年であったと振り返ります。知らないものを知ったというような感覚とは異なり、本当は、そこに存在している(存在していた)のに、自分には知覚、認知できていない(いなかった)ということに気づくことが多かったです。

本書は、極めて網羅的に、知覚(認知)のセンサーを広く、深く、拡張してくれたと感じます。

””こうした無数のシステムを結びつけられる奥深い 文脈 は存在しないだろうかと、探し求めるのである。バラバラになっているさまざまなシステムを包み込んで、それらをホリスティックな 螺旋、あるいは、統合的な 網目細工 へとまとめ上げようとするのだ。言い換えれば、私たちは、第二層の思考を用いることで、 相対主義的な見方から 全体的 な見方へと、あるいは、 多元的な見方から統合的な見方へと移行するのである。 ””

””第二層の意識とは、本質的には、 垂直的な思考と水平的な思考の両方を行うことのできる意識 である。この意識は、 階層的な見方 と 並列的な見方、 順位づけ と 結びつけ の両方を活用することができるのだ。それゆえに、人は生まれて初めて、 内面的発達のスペクトラム全体を明確に理解する ようになる。そして、 螺旋 全体が健全であるためには、どの 段階 の存在も極めて重要であるということを認識するようになる。””

””私はこのことを、「越えて含む(Transcend And Include)」という言葉で説明したい。それぞれの段階(ウェイブ)は、前の段階の及ばない場所へと進んでいる、つまり、前の段階を越えているのだが同時にまた、前の段階を自らの一部として包み込んでいる、つまり含んでいるのである。””

””例えば、分子が原資を越えているとは言っても、分子は原子のことを嫌っているわけではない。むしろ、原子のことを嫌っているわけではない。むしろ、原資のことは好きであり、原資を自らの一部として包み込んでいるのだ。分子は原子を含んでいるのであり、原子を排除しているわけではない。これと全く同じことが、人間の発達についても言える。どの段階も、以後の総ての段階にとっての基本的な構成要素なのであり、それゆえ、大切に尊重されなければならないものなのだ。””

発達とは、成長とは、かくして、自己中心性の減少であり、アンセルフィッシュな態度、生き様を獲得していく過程にあるのではないか。「越えて含む(Transcend And Include)」ことによって自己愛を越え、他人、果ては社会、世界、地球といった対象をも、本気で愛していくことが出来る。

””多くの心理学者が合意していることは、自己愛をどう捉えるかはさまざまであるが(加えて、自己愛にもさまざまなタイプがあるが)、一般的に言って、自己愛とは子どもに見受けられる標準的な特徴であり、大人になれば──完全にとは言えなくても、かなりの程度までは──脱却しているべきものだということである。実際、 発達とは、自己中心性が次第に減少していくこと であると定義できる。””

では、どのように変容していくのでしょうか。

”” 発達の螺旋とは、 思いやり の螺旋でもある のだ。「私」への思いやり、「私たち」への思いやり、そして「私たち全員」への思いやりへと、その対象が広がっていくのである──そしていずれは、統合的な包容力を獲得することになるだろ う。””

””発達 とは、 包み込むこと なのである。それゆえに、それぞれの 段階 は、前の段階よりも包括的で、インクルーシブで、統合的なのだ──前の段階よりも、誰かを周縁化したり、排除したり、抑圧したりすることが少ないのである(言い換えれば、それぞれの段階は「超えて含む」のである──自らの偏狭さを 超えて、他者を 含む のだ)。

発達とは包み込むこと。越えて含むこと。

””私たちが扱っている問題とは、どうすれば、文化の最先端において、統合的な意識を(さらには 超-個的 な意識を)効果的に出現させていけるのかということなのだ。 私の考えでは、必要なものは、ただの「新しい統合的理論」でもなければ、ただの「新しい万物の理論」でもない。こうした 理論 も確かに重要なのだが、それと同時に、新しい 統合的 実践 が必要なのだ。仮に、コスモスについての完璧な統合的地図、完全に包括的でホリスティックな地図を手に入れたとしても、そうした地図そのものが、人々を変容させることはないだろう。 必要なのは、地図だけではない。同時に、地図のつくり手を変容させるための方法が必要なのだ””

””存在の 螺旋 とは、終わることなき偉大な 流れ なのであり、この流れは身体から心、魂、さらにスピリットへと広がっている。そしてこの大河の流れの中を、何百万という人間が、源流から海洋へと向かって絶えず泳ぎ続けているのだ。それゆえ、 どんな社会も、統合的段階という一点に位置することは決してない だろう。なぜなら、川の流れは、やむことなく続いているからだ(もっとも、歴史が示しているように、文化の「重心」は上昇し””

””だが、たとえそうであるとしても、主要な問題は同じである。問題は、どうすれば全ての人間を統合的段階(そしてそれ以降の段階)にたどり着かせられるかということでは ない のだ。そうではなく、問題とは、 どうすれば 螺旋 全体の健全さを維持することができるか ということなのである。何十億という人間が、来る年も来る年も、この 螺旋 の中を進み続けているのだから。 言い換えれば、私たちが行うべきことの大部分は、 低次の(それゆえに根底的な)諸 段階 を、その段階自身の論理の中で、もっと健全なものにする ということなの ””

””なぜか? なぜなら、「 一即多」を見つけ出そうという意思によって、私たちの心と頭が、「 一即多」と 同調 するようになるからだ。実際、「 一即多」とはスピリットそのものであり、世界の中で、まばゆいばかりに輝きを放っているのである。 私の考えでは、統合的アプローチこそ、「 一即多」を表現するためのもっとも有望なアプローチである。なぜなら、これから本章で言及するさまざまな世界観モデルの全てを、明示的に包含し、尊重するものであるからだ。 加えて、先にも述べたように、この統合的な全体像ないし「万物の理論」は、さまざまな世界観を探し出せる索引システムとしても機能する。そのことによって、それぞれの世界観が与えてくれる深遠で特別な贈り物を、正しく尊重しようとするので ””

””万物の理論を探求するにあたって、私はひとつのルールがあると考えている。それは、誰もが正しいということだ。もっと正確に言えば、 全ての人 ──私自身を含めて── が、何らかの真実の かけら をもっている ということである。こうした真実のかけらは全て、大切に尊重されなければならない。そうすることで、こうした部分的な真実は全て、もっと優美で、もっと広大で、もっと慈悲に満ちた抱擁の中に、言い換えれば、本物の「万物の理論」の中に、包摂されるので~””

誰もが正しいということ。全ての人は何らかの真実のかけらを持っている。

””思うに、私たちは最終的には、存在そのものに内在する歓び、あらゆる瞬間の大いなる完全性に基づく歓びを見つけ出すことになるだろう。全ての瞬間は、それ自体として驚くべき全体であると同時に、次なる全体の一部分であり、この全体と部分の連鎖は、滝のように次々と滑走し、無限へと向かったり戻ったりしているが、そこに欠けているものや不足しているものは何もなく、常に、現在という輝きのなかで完全に満たされている。 統合的なヴィジョンは、その役目を終えれば、最終的には、認識するにはあまりにも明らかであり、到達するにはあまりにも近いスピリットの輝きの前に、敗北するだろう。統合的な探求は、探求そのものを手放すことによって、とうとうその目的を達成し、常にすでに現前していた根本的な 自由 と最上の 豊かさの中へと溶解する。私たちは、万物の理論を放棄することで単に万物そのものになり、コスモスを優しく握りしめているこの終わりなき意識のなかで、全てとひとつに””

””ウィルバー自身が述べているように、インテグラル理論とは、現実世界を包括的に映し出してくれる地図です。つまり、インテグラル理論はいわゆる「メタ理論」であり、「メタ理論」であるがゆえに、私たち一人ひとりは、個別具体的な理論を継続的に学び、その理論の具体的な実践を続けていく必要があります。 例えば、経営者であれば、経営理論を学び、そこにインテグラル理論というメタ理論を携えて日々の実践にあたることで、これまでよりもさらに包括的かつ豊かな企業マネジメントが実現されていくでしょう。これは経営者のみならず、教育に携わる人、医療に携わる人、政治に携わる人など、すべての実践者に当てはまります。 例えて言えば、既存のマネジメント論は木を見るために重要なものであり、インテグラル理論は森を見るために重要なものだとも言えます。木を見るだけでも、森を見るだけでもなく、木と森の双方を見ながら、森林を実際に歩くということ──つまり具体的な実践活動に取り組むことが何よりも欠かせません ””

””本書を読んだ後、私たちに問われるのは、 どれだけ醒めた目 ──冷たい目ではなく── で自己および社会を冷静に捉え、最大限の幅と深さを伴った形で、自分にできる試みをいかに実践していくか ということです。 発達とは、「醒めのプロセス」であり、私たちの発達が進んでいくと、自己および社会を透徹した眼差しで見つめることができるようになっていきます。こうした眼差しで自分自身、そして社会をとらえることができたら、私たちは健全な発達の歩みをさらに進めていくことができるでしょ ””

どれだけ醒めた目 ──冷たい目ではなく── で自己および社会を冷静に捉え、最大限の幅と深さを伴った形で、自分にできる試みをいかに実践していくか 。

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