『Curious: The Desire to Know and Why Your Future Depends on It~あなたの人生を創る「好奇心」の驚くべき力~』


生成AIの登場によって、今まで人間にしか出来なかった仕事や作業の大半が不要になるかもしれない、という人類史上稀に見る革命的瞬間に立ち会おうとしている今、人間を人間たらしめる要素は何か?と多様な議論がなされている。

その1つの重要な要素に「好奇心」という存在があるのではないか?少なくとも、これから暫くの間、今まで以上に「好奇心」がより一層大切になるのではないか?と感じざるを得ないことが増えている中で、出会った本書。

「好奇心」についての思考を追求することがテーマとなる『Curious: The Desire to Know and Why Your Future Depends on It』は、「好奇心」という存在が、僕たちの人生に深い喜びをもたらす力を持っていることを気付かせてくれる。

著者は、「好奇心を育むこと」の重要性について強調し、特に子供の頃から好奇心を育むことは、私たちの学業能力を向上させ、職業上の成功に欠かせないという。また、好奇心にはより深い意味があるとも言及しており、周りの世界を見つめることで美しさを発見し、新しいものを発見することで、個人的・職業的成長を促すことができると語る。

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Generative AIによる以下一部抜粋を受けた書評

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純粋な意味での好奇心は人間にしかみられません

「好奇心ほど不可思議で、私たちにとって大切なものはない」。動物が茂みを嗅ぎまわるのは三つの生理的欲求に導かれているが、現在知られているかぎり、星を見上げてあれは何だろうと疑問に思うのは人間だけなのです。それは、人間にはもう一つ、第四の欲求があるからです。しかし、好奇心には秩序がなく、好奇心と秩序は相容れないとされています。好奇心は定められた道に満足せず、脇に逸れ、あてもなくさまよい、方向を変える傾向があります。それを追求すれば、やがて権威との対立が待っていることは、ガリレオやダーウィン、スティーブ・ジョブズなどを見ても明らかです。

好奇心に満ちた学習者は深く、そして広く学ぶ

好奇心に満ちた学習者は深く、そして広く学ぶことができます。彼らは専門知識と高度な判断能力を必要とする職務に向いており、異なる分野の知識をつなぎ合わせて新たな知恵を生み出す創造的な活動が得意です。複数の専門分野を横断するチームで働くのにいちばん適しているのもこのタイプであり、人工知能が苦手とするような仕事を担う存在です。現代の世界では、テクノロジーによって人間の仕事が置き換えられつつあるため、もはや賢いだけでは生き残れません。コンピューターは賢いですが、今のところ好奇心旺盛なコンピューターは存在しません。

好奇心は知識を深めるための第一歩

好奇心は探究心への第一歩です。私たちが未知なるものへと目を開くきっかけとなり、新たな経験を求め、それまで縁のなかった人々に出会うことを後押ししてくれます。しかし、知ることへの欲求をふくらませて成熟させない限り、何の洞察も得られないまま興味の対象を次々と替えるだけで、エネルギーと時間を無駄にしかねません。束縛のない好奇心は素晴らしいですが、方向性をもたない好奇心は不毛です。

結論

好奇心には秩序がなく、定められた道に満足せず、脇に逸れる傾向があります。それは、好奇心が知識を深めるための第一歩である一方、何の洞察も得られないまま興味の対象を次々と替えるだけで、エネルギーと時間を無駄にすることもあるからです。好奇心に満ちた学習者は深く、そして広く学ぶことができ、複数の専門分野を横断するチームで働くのにいちばん適している存在です。私たちは好奇心を大切にし、常に知識を深めるための第一歩として、探究心を持ち続けることが重要です。

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一部抜粋

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””「好奇心ほど不可思議で、私たちにとって大切なものはありません」。ロイドはそう訴えた。「ダーウィンが明らかにしたとおり、私たち人間はほかの霊長類と同じように、食と性と安全という三つの基本的欲求によって突き動かされています。しかし人間にはもう一つ、第四の欲求がある。純粋な意味での好奇心は人間にしかみられません。動物が茂みを嗅ぎまわるのは三つの欲求に導かれてのことです。ところが現在知られているかぎり、星を見上げてあれは何だろうと疑問に思うのは人間だけなの

””これには理由がある。好奇心には秩序がないのだ。好奇心と秩序は相容れない。少なくとも好奇心の裏には、どんな秩序も鋭い疑問の声が上がれば揺らぐものだという認識がある。好奇心は定められた道に満足せず、脇に逸れ、あてもなくさまよい、いきなり方向を変える。つまり、好奇心とは逸脱にほかならない。それを追求すれば、やがて権威との対立が待っていることは、ガリレオやダーウィン、スティーブ・ジョブズをみても明らか

””拡散的好奇心は探究心への第一歩だ。私たちが未知なるものへと目を開くきっかけとなり、新たな経験を求め、それまで縁のなかった人々に出会うことを後押ししてくれる。ただし、知ることへの欲求をふくらませて成熟させない限り、何の洞察も得られないまま興味の対象を次々と替えるだけで、エネルギーと時間を無駄にしかねない。束縛のない好奇心は素晴らしい。しかし、方向性をもたない好奇心は不毛

””人が無知な理由はただ一つ、あまり気にかけないからだ。無知とはつまり無関心だ。無関心は何よりも奇妙で愚かな悪習である。 ――スティーヴン・フライ[「QI」の司会を務めた

””私たちは自分が何を知るべきかわかっていたら、もっと楽に生きられるだろう。幸せになるには何を知るべきか、生まれたときに細かく教えてもらえたらどんなにいいか。だが複雑な世の中では、将来何が役に立つのか誰にもわからない。したがって、大切なのは幅広い分野に先行投資をしておくことだ。好奇心旺盛な人々は冒険をし、さまざまなことに挑み、あえて効率を犠牲にする。彼らは今日学んだことが、たまたま次の日に役に立ったり、問題をまったくちがった角度から捉えるきっかけになったりすることを知っている。先を予測するのが難しい環境であればあるほど、一見無駄に思われそうな幅広く深い知識が重要になる。人間はマンモスと格闘していた太古の昔から複雑な問題に立ち向かってきた。しかし、私たちが生きる社会がかつてないほどの規模に成長し、多様性や変化のスピードが増している今、好奇心はかつてないほど重要な――そして有意義な――資質になって

””ピアジェの理論によると、好奇心は逆U字型の曲線をたどる。横軸は驚きの度合いを示している。好奇心が最大になるのは、予測が裏切られた度合いが極端に小さいわけでも、極端に大きいわけでもないときだ。その度合いがとても小さければ簡単に無視できる。逆にとても大きければその事実から目を逸らそうとする。そこに隠された意味に漠然とした不安を感じるからだ。ところが不整合に着目するこの理論では、どうして私が隣のテーブルの会話に聞き耳を立て、あなたがクリミア戦争についてできるだけ詳しく知りたいと思うのか、説明がつか

””一九九四年、カーネギー・メロン大学の心理学者で行動経済学者のジョージ・ローウェンスタインは、好奇心を本能から解釈するアプローチと、認知の視点から解釈するアプローチを融合する理論を提唱した。ローウェンスタインによると、好奇心は「情報の空白」に対する反応である。私たちは知りたいことと、すでに知っていることのあいだに空白があると好奇心を抱く。知りたいという欲求を呼び覚ますのは「不整合」だけではない。情報が存在しないこともその要因になる。情報の空白は質問の形式で顕在化することが多い。あの箱の中には何があるのか? あの男性はどうして泣いているのか? 「苦しみ」を意味する四文字からなる単語は何だろう? これらは情報の一部だけを手にしている状態の例だ――ここに箱がある、泣いている男性がいる、クロスワードのヒントがある。そのような状況に遭遇すると、私たちは欠けている情報について知りたくなる。ローウェンスタインの理論は単純そうにみえるが、じつは深遠なことを教えてくれる。それを正しく理解するには、彼の理論に大きな影響を与えた学者ダニエル・バーラインの理論から紐解いてゆく必要が

””好奇心は理解と、理解の欠如の双方によって刺激される。これは学習の動機について重要なことを物語って

””「情報の空白」という理論を打ち立てた。彼は、新しい情報からくる刺激によって 無知を自覚させられたとき に好奇心が生まれ、さらに知りたいという欲求に発展すると主張する。私たちはある事柄について何らかの知識を得ると、自分が 知らない ことがあると気づいて落ち着かなくなり、その空白を埋めたくなる。ウィリアム・ジェイムズ[アメリカの哲学者、心理学者。ヘンリー・ジェイムズの兄] はローウェンスタインに先立って、「科学的好奇心」は「音楽に関わる脳の領域が不協和音に反応するように、知識の空白から生まれる」と述べている。ここで非常に重要なのは、情報が存在しないときに好奇心が生まれるだけでなく、 すでに保有している情報 についても、その空白が鍵になるということ

””少しだけ知っていることが好奇心に火をつける  一般的に、好奇心は何も知らない事柄に対して湧き起こる心理であるかのように誤解され、少しだけ知識がある状態が好奇心に与える影響は見過ごされることが多い。実際には、人はまったく知らないことには興味を抱かないものだ。ドイツの哲学者ルードヴィヒ・フォイエルバッハは次のように述べている。「人は自分が知る手だてのあることしか知りたがらない。その限界の外にあるものは何であれ、その人物にとっては存在しないも同然だ。したがって、それが関心や願望の対象になることはあり得ない」。マルセル・プルーストは『失われた時を求めて』の主人公をこんなふうに描写している――スワンは「自分の知らないことを想像し、それを知りたいと願う気持ちを刺激する、ごくわずかな最初のきっかけさえ持ち合わせてい

””何でも知っていると思い込むと無関心になりがち――過信効果  好奇心を抱くには、つまり情報の空白を埋めたいという衝動に駆られるには、その前提として自分の知識に空白があることを自覚しなければならない。ところが困ったことに、人は自分が何でも知っていると思い込んでいることが多い。心理学者はこれを「過信効果」と呼ぶ――私たちはたいてい、自分が車のドライバーとして、親として、あるいはパートナーとして平均以上だと自負している。自分の知識に関する自己評価についてもそうだ。人は自分のもつ情報に空白があるという事実になかなか気づかない。そのため、もっと好奇心をもつべき状況であっても、無関心になりがちなので

””自信過剰と自信不足の力学は大人にも同じように作用する。たとえば、職場について考えてみよう――社員がいつ仕事を失うか不安に怯えながら仕事をしている企業では、好奇心のあふれる風土は望めない。一方で、社員にとってすべてが順調で、気前のよいボーナスが保証されている企業でも、やはり好奇心はしぼんでしまうだろう。好奇心が花開くには絶妙な不確実性が必要だ。不確実性があまりにも大きくなると、好奇心は凍りついて

””好奇心は「知識の感情」であると理解されてきた。情報の空白は必ずしも理性的に認識されるわけではない。その始まりは、搔かずにはいられない痒みのようなものだ。情報の空白はもどかしさを呼ぶが、それは私たちが自ら招き入れる苦痛である(そういう意味で、好奇心には本質的にマゾヒスティックな側面がある)。進化論的にみれば、あらゆる感情の本質的な役割は動機づけだ。怒りの感情は望ましくない状況を変え、間違いを正すきっかけとなる。愛は自分を裏切った相手さえもつなぎとめようとする原動力だ。好奇心を支える感情は、人を知的探究に駆り立てる。たとえ差し迫った必要がなくても、疲れ切り、困惑しているときでさえも。好奇心旺盛な人は、求めている情報や理解を得られるまで感情的に満たされない。だからこそ、空白が埋まるまで本を読み、質問を繰り返すの

””母親との関係に問題がある子どもたちも母親が戻ってくると嬉しそうにするが、探索に戻らないことが多かった。まるで、背を向けたらお母さんがいなくなってしまうのではないかと怯えているようだった。この観察で明らかになったことをスーザン・エンゲルが次のようにまとめている。「不安を感じている子どもたちは、身体的にも精神的にも、情報収集のための探索を行わない傾向が高くなる」。好奇心は愛によって支えられていると言えるだろ

””ストーリーの良し悪しは、ローウェンスタインが言うところの情報の空白をいかに巧みに操るかにかかっている。マッキーはこう表現する。「好奇心とは疑問に答え、空白を埋めたいと思う知的欲求だ。ストーリーはこれとは逆のことをする。つまり疑問を投げかけ、意図的に空白をつくることによって、人間の普遍的な願いに訴えかけるの

””目的のない 探求は「安らかな喜びを与えてくれる精神活動」であり、アテネにおける唯一の娯楽だった。  ローマ人も好奇心に実利を求めない立場を受け継いだ。キケロは好奇心を「利益の誘惑をいっさい伴わない、学問と知識に向けられた根源的な欲求」と定義した。それは脳が求めるというより、心の奥底で感じるものだ。キケロは好奇心を「知ることを求める情熱」と呼び、オデュッセウスがセイレーンに惹かれたのも性的欲望からではなく、セイレーンが彼の果てしない知的好奇心を満たすと約束したからだと説明した(そこまで冷静でいられるのはキケロくらいかもしれないが)。好奇心はまた、肉体的な衝動であるとも論じられた――いわゆる「生理的欲求」から生じる欲求である。このように好奇心は人間のもっとも根源的な欲求と、もっとも高次の欲求を具現したものだっ

””聖アウグスティヌスは『告白』のなかで、好奇心の問題を三つに分類している。第一に、少なくともギリシャ人が考えていたのと同じ意味で、好奇心は無目的である。人は好奇心のせいで「何の役にも立たないことを、ただ知りたいという理由」で探究する。第二に、好奇心は邪である。欲望が肉体を圧倒して人を正しい道から逸脱させるように、好奇心は精神の妨げとなる。聖アウグスティヌス自身も、目の前を通りすぎるトカゲや、クモがハエを捕らえるようすに好奇心を刺激されて祈りに集中できなくなると記している(ツイッターに気をとられずにすんだのは幸運だった)。第三に、好奇心は傲慢である。隠されているものを見たい、知りたいという人間の欲求は、神聖な権威に逆らうことにほかならない。神がその者には提示すべきでないと判断した知識をなぜ追い求める必要がある

””だが好奇心とは、自分がまだ気づいて いない ことを、興味を惹かれて いない ことを知りたいと願う欲求なのだ。それは出会ってみるまで自分に関係があるとさえ思わなかったような世界で

私たちが直面している事態は知的レベルの低下ではなく、認知能力の二極化だ――好奇心を発揮する人と、そうでない人の格差が生まれている。意欲的に知的冒険に踏み出す人々は、過去に例をみないほど多くの機会を得るだろう。他人から投げかけられた疑問に手早く応答するだけで満足する人々は、自ら問いを発する習慣を失うか、そもそもそんな習慣を身につけることもないまま一生を終えるのだろう。作家のケヴィン・ドラムは容赦なく言う。「インターネットは賢い人間をさらに賢くし、間抜けをさらに間抜けに

””好奇心を維持できる人が成果を手にする時代  現在、労働市場は世界的に拡大し、かつては人間にしかできなかった仕事を高度な機械がこなすようになっており、仕事の獲得競争は熾烈さを増している。一方では、インターネットはかつて教育を受けられなかった人々にまで学習の機会を広げている。これはつまり、好奇心旺盛な人々はその報酬を受け、そうでない人々はその罰を受ける傾向が強まることを意味する。好奇心こそが新しいことを学ぶ最大の原動力だから

””二〇一三年に出版した著書『大格差』[池村千秋訳、NTT出版、二〇一四年] について取材を受けたときの言葉を紹介しよう。  情報が簡単に得られる時代には、じっくりと集中して能動的に学ぶことの報酬は大きい……たとえば中国やインドに生まれても、機転を利かせ、志を高くもてば、一〇年、二〇年前には考えられなかったような成果が得られるのです。ところが裕福な国では、怠けているとまでは言わないにしても、意欲的とは言えない人々が増えている。それなりになんとか生きていけると過信しているのです。そういった人々は自分が思っているほど貴重な存在ではなくなりつつあるので、相対的にはすでに収入が下がっているの

””成功が意図的な無知を生むこともある。企業が成長するにつれて難しい疑問を重視しなくなるのは、ビジネスの 慣わしのようだ。うまくいっている(ように見える)現状に、どうして疑問を投げかける必要があるのか。イノベーションに関する古典として知られる『イノベーションのジレンマ』[伊豆原弓訳、翔泳社、増補改訂版、二〇〇一年] のなかで、著者のクレイトン・クリステンセンは一流の頭脳が揃った企業でさえも、どうすればよりよくできるのかと自問することをやめたばかりに失敗するようすを明らかにしている。失敗の理由はほかでもない、顧客の要望に応え、もっとも採算性の高い商品やサービスを提供することに大成功したせいで、市場を牽引するようになった企業は目立たない低価格商品の分野で何が起きているのか見過ごしやすくなるから

””あらゆる企業において――技術革新に常に対応しなければ生き残れない業界ではとくにそうだが――経営トップのみならず、すべての社員が好奇心を研ぎ澄ますような精神的文化を育むことは重要であり、難しい課題でもある。探究心に突き動かされるコミュニティをどうやってつくり、維持すればよいのか。それを実現する公式はない。しかし、国家の興亡に注目してみると、いくつかの手がかりが得られるはず

””新しい知識は、意識のうえでは結びつかないような領域で、多様な課題にいつでも応えられるように準備をととのえている。眠りは長期記憶に対して、パーティーにおけるアルコールのような役割を果たすのだろう。思考を支配する意識が手綱をゆるめ、記憶に蓄えられた事実が自由に対話するようになる――一つの知識が離れた場所にある別の知識と交流を始めるのだ。私たちは、仕事中は具体的な課題に対処するために精神を働かせているので、仕事に集中していない夜の時間に知識が結合し、突破口が開けることが多く

””今後、思想家として成功する可能性がもっとも高いのは、これら二つの生き物を交配した新種になるだろう。競争の激しい高度な情報社会では、一つか二つ大きなことを知っていて、なおかつそれについて同時代の誰よりも深く、詳しく知っていることが欠かせない。ただしその知識を本当に生かすには、さまざまな視点から考え、異なる専門分野の人々と効果的に協力する能力が必要

””私たちが考えなければならない根本的な課題は――人生においてもビジネス活動においても――いかにして、あらゆる物事に意味が与えられるようにミクロとマクロを統合するかだ。人文科学の分野では世界について多くを学ぶことだろう。だが、それを学んだからといって、仕事で本当に役立つ能力が身につくわけではない。反対に工学専攻では、技術的なことについて非常に細かく学ぶ。だが仕事を始めたとき、身につけた技術をなぜ、どうやって、どこで生かすのかということは学ばずじまいになるかもしれない。優れた学生、労働者、思想家は、これらの問題を一つの物語へと集約することに

””世の中のあらゆることに「興味をもつ」ことが得意な人がいるのも事実だ。それは才能であり、もっと厳密に言えば技能である。ヘンリー・ジェイムズは人生によって精神が養われていたというが、その人生は大半の人々の人生と比べてとくに面白かったわけではない――それどころか、ウェルズが暗に指摘しているように、どちらかといえば退屈なものだった。しかし彼は、公園を散歩中に観察したことや、晩餐会で耳にしたうわさなど、面白そうには見えない題材についてじっくりと考え、それを想像力豊かで躍動感のある小説へと変えたので

””夫婦生活の退屈は痴話喧嘩よりも有害  これは夫婦や恋人の関係にもあてはまる。ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校の心理学者アーサー・アーロンは、長期的な恋愛関係について研究している。彼はこの分野に関心をもつようになったとき、従来の研究に偏りがあることに気づいた。ほとんどの研究がいさかいに注目していたのだ――男女はなぜ言い争うのか。嫉妬や怒りや不安についてはいくらでも研究があった。ところがもっと地味で、もっとありふれた問題は見過ごされていた――男女は退屈するとどうなる

””アーロンと仲間の研究者たちは、夫婦について長期間にわたる研究を行った。調査対象はミシガン州の一〇〇組以上の夫婦で、年に一度それぞれの自宅を訪れて夫婦別々に話を聞いた。アーロンは結婚六年目と七年目に差しかかった夫婦から、三つの質問に関してデータを集めている。まずは「この一カ月で結婚生活がマンネリ化している(もしくはしかけている)とどのくらいの頻度で感じましたか」という質問。次に「全体的にみて、結婚生活にどのくらい満足していますか」という質問。そして最後に、親密さの度合いを視覚的に測るため、二つの円がさまざまな割合で重なり合っている図を見せ、「あなたの結婚生活をもっともよく表している図」はどれかと訊い

””自己中心の考えから逃れる  それでも、好奇心に伴うコストには値打ちがある。二〇〇五年のケニヨン大学の卒業式でスピーチをした小説家のデイヴィッド・フォスター・ウォレスは、幸せで充実した人生を送るには好奇心を働かせることが欠かせないと訴えている。彼はその根拠として、人は根本的に救いようがないほど自己中心的であることを指摘している。  考えてほしい。きみたちが経験してきたことはすべて、きみたちがまちがいなく中心にいるはずだ。きみたちが経験している世界は きみたち の前に、うしろに、左右にあり、 きみたち のテレビや、 きみたち のモニターのなかにある。他人の考えや感情も何とかして受け入れなければいけないが、きみたち自身の考えや感情はとても直接的で切迫していて、生々しいもの

””私たちが生まれながらにして抱えている自分自身への執着から自由になるには、他人について好奇心を働かせるしかない、とウォレスは述べる。それが道徳にかなったことだからというだけでなく、そうすることが日常生活の「退屈や日々の雑事、ささいな不満」に対処する最良の方法だからだ。彼はスーパーのレジの長い列に並んでいるときや、一日の終わりに交通渋滞に巻き込まれたときの例を挙げている。疲れてお腹もすいているとなれば、周囲に苛立ちを覚えて自分だけの苦痛を嘆くこともあるだろう。だが「自分には選択肢があるのだと心得ていれば」、自分が置かれた状況をちがった角度で見ることができる。たとえば、レジを待つ列で子どもに金切り声を上げている女性を見たら、病気の夫を何日も看病しているのかもしれないと想像する。あるいは、ほかの車が割り込んできたら、子どもを病院に連れていくところかもしれないと想像

””ウォレスはこれこそが教育の目的であり、「生涯にわたって取り組むべきこと」だと考えている。教育を受けるということは、考えかたを学び、それによってもともとそなわっている自己中心的な発想から逃れることでもある。これは分別のある正しい意見だと思う。しかしウォレスがこの能力について「知識はほとんど関係ない」と述べている点については賛成できない。それは知識と切り離すことのできない能力だ。そもそも、共感的好奇心は知的好奇心がなければ成り立たない。スーパーのレジに並ぶ女性の立場になって考えるには、自分の人生とはかけはなれた人生がどんなものなのかある程度知識がなくてはならない。また、これまで述べたとおり、…

””絶望の淵から――好奇心の喪失  作家のジェフ・ダイヤーは自分が患った鬱病のことを、「あらゆることに対して一切の興味を抱かなくなる状態」と表現している。彼は著書『ひどい怒りを逃れて( Out of Sheer Rage)』のなかで、絶えず読書をして世界各地を旅し、世の中に飽くことのない関心を抱いていた自分が鬱病にかかり、したいことも、見たいものも、読みたいものも何一つ思いつかなくなったようすを記している。「私はあらゆることについて興味を失い、好奇心をなくしていた」。彼はアパートに閉じこもり、テレビを見続けていた。しかもそのテレビは消えたままだったと

””自殺を考えているというファンから痛ましいほど正直な質問を受けた。「この世界には美しいものや素晴らしいものがあることはわかっています……でも興味をなくしたらどうすればいいのでしょう」。フラクションの回答は全文を読む価値があるが(巻末の補足にURLを記しておく)、そのなかでも、彼がかつて自殺寸前まで追い詰められたとき、どうやって切り抜けたか振り返っている箇所を紹介しよう。 それで考えた――そうだ、何か興味をもてることはないか? 先がどうなるのか見届けたいことはないか。そしたらそのとき読んでいたコミックがあって、結末がどうなるのかまだ知らないじゃないか、と思った。それで自分にはまだ好奇心があると気づいた。それは帽子を掛けるフックのようなものだ。まだ何か心に引っかかるものがあると思うのは、本当にこの世を去るべきときがきているわけじゃないんだ。どこまでも不毛な地面から顔をのぞかせた小さな芽が、僕にもう少しこの世にいようって気持ちを与えてくれたん

””世の中には注意を向けるに値するものが何もないと感じること(あるいは、注意を向けることのすべてが無意味だと感じること)が鬱状態だとすれば、反対の方向へと導いてくれるのが好奇心だ。好奇心とは生きる力だ。世界はどこまでも面白く、尽きることのない刺激と魅力にあふれていることを思い出させてくれる。この感覚はT・H・ホワイトの『永遠の王』[森下弓子訳、東京創元社、一九九二年] の一節によって見事に表現されている。 「悲しいときにいちばんいいのは」とマーリンは息を切らしながら答えた。「学ぶことだ。それが唯一、いつまでも役に立つものだ。年老いて体が震えるようになったとき。夜眠れずに横たわり、脈の乱れに耳を傾けるとき。失ったたった一つの愛を寂しく思い出すとき。周りの世界が正気を失った邪な者たちによって荒らされるのを目の当たりにするとき。自分の名誉が卑劣な者たちのどぶのような心のなかで踏みにじられることを知ったとき。そんなとき役に立つのはたった一つ――学ぶことだ。世界がどうして動き、何が世界を動かしているのか学ぶことだ。それが唯一、精神が飽くことも知らなければ遠ざけることもできず、それによって苦しめられることも、恐れることも、不信感を抱くことも、ほんのわずかな後悔さえ抱くことのないものだからだ。とにかく学ぶことだ。学ぶべきことがどんなにたくさんあること

””好奇心は意識的に養っていくべきものであり、子どもの学力を伸ばすにも、職業上の成功を手にするためにも欠かせない。しかし著者はさらに、好奇心にはそういった実利的な面だけでなく、人間に深い喜びを与えてくれる力があることを気づかせてくれる。 「世界はとてつもなく 面白い ってことに急に気づいた。興味をもって眺めれば、この世のあらゆるものが――地球の重力、鳩の頭の形、雑草の葉さえも――じつに驚くべきものに見えてくる」。これは先ほど触れた著名なプロデューサーの言葉だ。殻に閉じこもっていた彼は知的好奇心を深めることで再び成功を手にしただけでなく、かつて経験したことのない生きる喜びを感じることができた。この言葉は、人間が持つ知的好奇心の美しさを物語っているようで心打たれる。自分にとって直接的な利害関係のない事柄を知りたいと切望し、それを知って心が満たされる感覚は人間にしかない特権と言えるだろう。  喜ばしいことに、知的好奇心は何歳になっても深めることが