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未来は変えられる。運命なんてものはない。自ら作り上げるものだ。~AI時代の勝者と敗者~

 

 

 

2~3年前の自分が、ここまで多岐にわたる技術的変化の数々に対して、ほとんど何も準備することが出来なかったことに強い後悔を覚えている。確かに小さな兆しは、そこかしこに存在していた。必死に沢山のことに興味を持ってきたつもりだった。何十冊と慣れないタイプの書籍を読んできた。にも関わらず、何らかの具体的な仕込みがあったわけでもなく、ゆえに何らかの果実を手にしたわけでもない。つまり、「知っている」だけでは役に立たない。いかに自分が知識を行動に落とし込めていないかを痛感せざるを得ない事態が、この身の上に降り掛かってくる。

 

しかしまた同時に、もしも、この急激な社会変化を軽視していれば、「後悔」することさえなかったのかもしれない、とも思う。相当数の未来予測系書籍、最先端テクノロジー系書籍をマークしてきたからこそ、自分の不遜さを猛省することが出来ているとも言える。「まだ時間がある。自分は大丈夫。人間らしい仕事は残るはず。」今の自分には、その種の楽観的なスタンスよりも、予測不可能とも思える指数関数的な変革の時期に、ある程度の悲観的な態度で、自分の人生や自分たちのチームに責任を持つべきであろうと考えを改めるべきかもしれない。

 

 

””自動化は、人間の仕事を奪っていく。体系化できる仕事ならすぐにコンピュータに置き換え、人間の仕事を徐々に削り取っていく。コスト削減だけを目的にしており、管理者は現状以上の仕事をしようとは考えない。対照的に拡張は、人間と機械が個々に行っている仕事を、両者が協力してさらに発展させていく方法を探る。その意図は、コストも手間もかかる人間の仕事を減らすことにはない。人間の仕事の価値をこれまで以上に高めることにある。””

 

 

””今日、機械の台頭を怖れている知識労働者は多い。彼らの仕事を奪おうとするこの前例のないツールの可能性を考えれば、不安に思うのも当然だろう。だが、身のまわりで大規模な変化が展開されていたとしても、自分にはどうしようもないと考える必要はない。私たちが取るべき手段はある。私たち自身が優秀なものに仕立て上げた機械と新たなプラスの関係を築けるかどうかは、私たち次第である(一人ひとりという意味でも組織という意味でも)。人間と機械の力を組み合わせれば、それぞれの職場もこの世界も、かつてないほど過ごしやすい場所にできるのだ。””

 

 

”” AI時代の到来を恐れることはない。むしろ機械の進化によって私たちはより人間らしい生き方を享受できると考えるべきである。しかしそのためには、学習から得た知識だけでなく、経験から身につけた感性をより豊かにする努力が必要である。そしてスマートマシンが「人の仕事の自動化」のためのものではなく、「人の能力の拡張」であるととらえることにより、各々にとってのAI時代の勝者となるための道標が見えてくるであろう。””

 

 

今では、機械に取って代わられにくい「人間らしい」仕事に固執するよりも、上手く機械と協力していく道を選ぶべきという主張が最も腹落ちする。本書は、人間と機械が協力し、お互いの能力を発展させる方法を解説してくれる。機械に仕事を奪われるという思考停止的な論調で終えず、いかに機械と協力し、人間の仕事の価値を高めていくか、真剣に向き合わせてくれる。「人間らしさ」を追求するだけでなく「機械らしさ」を学び、実際に協力方法を模索し、実践していくことで、次の2~3年後には、「ああ、あの当時(2~3年前)、あのような決意をし、学び続け、行動し続けられたおかげで、いくつも仕込み、いくつもの果実を手に入れることが出来ている」そのように発言できるようありたい。

 

 

 

””スマートマシンの導入がプラスの結果をもたらすと考えたい。それには、現状への危機意識を高め、結果がプラスになるような決断を下すことが重要だ。ボストロムは、「解決するチャンスが何度も巡ってくるわけではない」から、すぐに重大な選択をしなければならないと考えているようだが、筆者はそうは思わない。一般的に、変革の時期の混乱を最小限に食い止めるには、長い時間をかけて変化させることが必要になる。カリフォルニア大学バークレー校でAIを研究するスチュアート・ラッセルは、スーパー知能を持つコンピュータは人間にとって脅威になるかと尋ねられ、こう答えている。「人工知能は、天気のように、晴れればいいなと思いながらただ眺めているだけのものとは違います。それがどんなものになるかは、私たちが決めるのです。したがってAIが人類にとって脅威となるかどうかは、私たちがそうするかどうかによります」。ラッセルは、楽観的な考え方をしているわけではない。AIを脅威としない方向へ進むよう呼びかけているのだ。””

 

 

 

The future is not set.
There is no fate but what we make for ourselves.
(Terminator 2 / Kyle Reese)

「未来は変えられる。
運命なんてものはない。自ら作り上げるものだ。」

(映画「ターミネーター2 特別編」/カイル・リースのセリフより)

 

 

 

 

 

目次

 

序 章 あらゆる仕事で機械との競争が始まった
スマートマシンの発展により、知識労働者の仕事が危機にさらされている。

第1章 私たちの仕事はコンピュータに奪われるのか?
ほとんどの仕事で機械のほうが有能になる。この脅威を真剣に受け止めるべきだ。

第2章 スマートマシンはどのくらい優秀なのか?
多くの面で機械のほうが人間より有能になっている。だが、人間の役割はまだある。

第3章 「自動化」ではなく「拡張」を
大切なのは、どの仕事が機械に奪われるかではなく、機械を使って人間はどんな仕事ができるかである。

第4章 ステップ・アップ
──自動システムの上をいく仕事 大局的に見られる人、十分なデータなしで判断できる人は、今後も機械よりも高いレベルで問題を解決する。

第5章 ステップ・アサイド
──機械にできない仕事 機械が得意でない作業を人間がする。人間との交流、人間への説明や説得など。

第6章 ステップ・イン
──ビジネスと技術をつなぐ仕事 機械の仕組みを理解し、監視し、改善する仕事は、人間の仕事として残っていく。

第7章 ステップ・ナロウリー
──自動化されない専門的な仕事 機械を導入しても経済的でないニッチな専門分野には、人間が活躍する仕事が残る。

第8章 ステップ・フォワード
──新システムを生み出す仕事 技術力を持ち、次世代のスマートマシンをつくる仕事は今後もなくならない。

第9章 「拡張」をどう管理するか?
企業にとって拡張は、競争を勝ち抜くのに欠かせない現実的な唯一の戦略である。

第10章 ユートピアかディストピアか
──スマートマシンにどう適応すべきか 拡張を重視すれば、教育政策や雇用創出政策なども変わる。

 

 

 

 

 

変化適応し続けることを楽しめるように~人工知能が変える仕事の未来~

 

 

 

ブームや流行とは呼び辛いくらいに人工知能的なものが社会に進出し始めている中で、マジョリティの意見は、「理系優位論」が横行しているように思いますが、本当にその通りなのでしょうか。確かに、AI(エンジニア)に興味を持つことは、ウェブ(エンジニア)に興味を持つことよりも、ずっとハードルが高く、取っ付きにくいイメージがあるでしょう。実際のところ、例えば、PHPと言った言語を学ぶよりも、機械学習や深層学習のようなものを本質的に理解することは実際に難しいと感じていますが、皆さんはどうでしょうか?

 

例えば、本書で紹介される「データサイエンティスト」は、以下に触れられているように、少々、極端な表現が含まれているものの、要するに、このようなハイレベルなスキルが求められているとすると、いわゆる一般的、平均的な人たちが挑戦しようと思えるのか、という問いは、とても重要なものに思えてきます。

 

”「データ・サイエンティストに求められるスキルとは、どのようなものなのだろうか。ダベンポート博士によると、それは大きく分けると、技術、ビジネス、分析、そして人間関係の4つだという。  技術は、コンピュータを使いこなす能力を指す。ビッグデータを扱うため、大容量データを効率的に処理するシステム環境の構築から、データを処理するプログラミングまで、相当に高度なスキルが要求される。  単にデータを処理するわけではない。ビジネスの現実を知らなければ、新しいことを考える方向性を見誤ってしまう。ビジネスを知り、正しく分析することが要になる。この、ビジネスと分析の能力は、いわゆるビジネスアナリストの役割と似ている部分だろう。  最後に人間関係(コミュニケーション能力)を取り上げた視点が面白い。従来型のビジネスアナリスト像を語るとき、人間関係はビジネススキルの範疇にあった。それをわざわざ独立させたのには意味がある。ビジネスアナリストは意思決定者とコミュニケーションできれば問題なかったが、データ・サイエンティストはそれに加えて製品マネージャーや企画幹部、サービス所長、チームメンバー、そして顧客など、幅広い人々と意見を交換する必要があるためだ。  これら4つの能力を兼ね備えた人材は、現実にはほとんど存在しない。そこで多くの企業は、データ・サイエンティストのチームを編成する。たとえば、GEは400人のデータ・サイエンティストを抱え、彼らを複数のチームに分けてさまざまな事業分野の分析を行っている」。”

 

しかし著者は、理系的人財を賞賛する派ではなく、むしろ文系的人財および芸術系の人財こそ重要であると示唆してくれています。

 

”『文系、人文科学系、芸術系の人材育成こそ重要』文系学部、特に、社会科学系より人文科学系、そして芸術系の学部こそ育成し、振興しなければならないでしょう。自然科学・工学系でも、AIの出来損ないのようにゆっくり不正確な計算をする人材ではなく、最高度に洗練されたディープラーニング応用システムのように、大局観をもち、上司や組織のリーダーの予測もつかない提案を出し、ビジョンを描き、あとからじっくりそれが理解されるようなミニ天才を多数輩出すべく、創造性を引き出す教育に大きく舵を切るべきでしょう。  天才が多く生息していそうな芸術系学部の強化、定員増にも力を入れるべきでしょう。すでに、美術系、デザイン創造を専門とする学科の卒業生は、オンライン・サービス運営会社などから引っ張りだこになっていると聞きます。ヤフー・ジャパンなどでも、プログラマー以上に貴重な人材として、採用に注力しているようです。ディープラーニングの応用用途の中でも、生成系のAIにお手本の画像はじめクリエイティブ作品を創って教え込めるのは、このようなオリジナルの芸術的能力を発揮できる人々だからです。 ”

 

着実に確実に訪れるであろう、人類史上、稀なる革命的な社会変革期において、仕事が無くなることを恐れ過ぎるべきではないと考える人達は、往々にして、あまり深く考えていないか、しっかりと準備しているか、新たな時代に適応できるだけの知識や知恵を持ち得ていることが多いように思います。

僕が思うに、身も蓋もないかもしれませんが、恐れ過ぎず、軽視し過ぎない、絶妙なバランスの中で、自立的に生きられるよう、常に学び続ける習慣を持つこと、すなわち、世界に合わせて変化適応、進化し続けられる自分であり続けていくべきだと考えます。学ぶことや、変化することを楽しめることこそが、幸せに生き続ける大切な要素ではないか、と。

 

手段に過ぎないAI~何のために?を問い続ける自助努力を~ 

 
 
 
 
最新のAI活用事例を多様な領域で紹介する本書。AIがブームと呼ばれるような状況は収束を迎える段階に来ている。現代社会において、インターネットにアクセス出来ることにわざわざ感謝する人が減っているように、AIもただの「ツール」として社会に浸透し始める時期に突入していくだろう、と。
 
 
 
 
 
””昔のAIブームを経験した人は、今回もまたブームで終わるのではないかと思っている人も多いはずだ。今回のブームは本物なのか、今までのブームのように、期待だけで終わってしまうのではないかと。  ディープラーニングの本質は特徴をとらえ、概念を獲得するところにある。これは従来の技術では実現できなかったことであり、その意味では新しい世界が拓けたといえる。しかし、人間のように何もかも自動的に学んでくれるわけではない。皆がやがて、そうした限界点に気づき、過度に膨らんだ期待がしぼんでいく可能性は高い。  ブームとなったからには当然ながら、終わりは来る。筆者らはそろそろAIのブームを終わらせてもいいのではないかと、個人的に思っている。ブームは終わっても進化したAIは残る。AIの性能が大きく向上したことで、適用領域はかなり広がってきた。世界的なAIの技術開発に対する膨大なリソースの投入はこれからも続き、AIは進化を続けるだろう。その中から必ず新たな領域で利用され定着する、優れたAIが登場してくることは間違いない。  したがって、ブームが終わっても減滅期に入って手を引くのではなく、AIの真の姿を知ったうえで賢く使っていくことが、企業にとって今後の競争力に大きく影響してくるはずだ。AIを継続して育てることは重要である。3年かけて育てたAIを他社が模倣するには3年かかる。継続こそが力になるのがAIなのである。  たとえば、ゲーミフィケーションは一時大きなブームになったが、現在は下火になり、マスコミに取り上げられることも少ない。しかし、そうした周囲の風潮に流されることなく着実に導入を進めてきた企業は今、大きな効果をあげている。AIに対してもそれと同じ戦略を取るべきだろう。ブームが下火になったときにこそ、本当のチャンスがある。””
 
 
 
 
AIが仕事を奪うという類の悲観論に振り回されるでもなく、AIが人間の労働を不要にするという類の理想論にうつつを抜かしている場合でもない。目の前にある現実として、どう付き合っていくかを真剣に考え、学び、行動していくことで、ものすごいチャンスを手に入れることが出来る。
 
 
 
 
””技術進化は激しく、早い段階から準備しなければ、周囲から大きく後れを取ってしまう。誰も使っていない時期から始めれば、オンリーワンの先進的なサービスにつながるチャンスもある。積極的に新しい技術を触ってみる姿勢を持つことは大切だ。  ただし、繰り返しになるが、AIを目的化してはいけない。ポイントはあくまでも「AIの技術で、こういうことができないか」という形で考えることにある。この技術が世の中をどう変えるのかという議論から、もう一歩具体化して、身近な課題に近づけて考えてみて欲しい。バスワード化したAIのイメージに惑わされず、真実のAIの姿を正しく把握する。そのうえで、自分のビジネスに確実に新しい変化をもたらす要素の一つとして、しっかりと向き合い、その活用に取り組んでみて欲しい。本書がその一助になれば幸いである。””
 
 
 
AIに限らず、新たなトレンドが起きる時、ついつい傍観者になってしまったり、その言葉に踊らされ、本来「手段」であるべき対象を「目的化」してしまうということは、頭でわかっていても、なかなか避けられない現象の1つだと思います。
 
 
 
 
””適切な目的がAIの価値を決める  AI導入を考えている企業が最初に考えるべきなのは、AI導入により何をしたいのか、なぜAIを導入するのかという目的を明確にすることだ。そこを詰めないまま取りあえずAIを導入しようとしても、めぼしい成果を得られずに終わることになるだろう。  これは当たり前の話に聞こえるが、実際に目的が不明確なままAIの導入検討を進めてしまうケースは多い。よく見られるのは、経営層が他社で大きなインパクトをもたらしたAIの事例を聞きつけて、うちもAIを使って何かしなくてはならないと思い、部下にAI導入を命じるパターンである。部下は「今年度中にAIで何かしなくてはならない。御社ですぐにできることはないか」と、ITベンダーに相談をすることになる。  AIはもともと手段にすぎないが、現状ではこのように目的化してしまっていることが多い。きちんと「実現したいサービスのアイデアがある」「解決したい課題がある」という目的からスタートしないと単なる実験止まりになり、実際にビジネスで活用されるには至らないだろう。””
 
 
 
 
自分たちにとって、自分にとって、この技術をどのように活用することが出来るか、より一層に向き合い、チャレンジしていくことが肝要であると強く意識していきたい。
 
 
 
 
 
 
 
【抜粋】
 
””ゲーミフィケーション×AI  「ゲーミフィケーション」とは、ゲームの仕組みを導入することで仕事や勉強を夢中にさせ、モチベーションを高める方法論である。教育(エデュケーション)と娯楽(エンタテインメント)を合わせた「エデュテインメント」や、遊び(プレイ)と労働(レイバー)を合わせた「プレイバー」なども同様の趣旨の試みである。ゲーミフィケーションでは「ランキングやポイントをうまく取り入れて競争状況をつくり出す」「成功したらすぐにほめる」などの仕組みをうまく利用してモチベーションをあげている。  NTTデータでも、従業員向けにゲーミフィケーションサービスを提供できるシステムの開発を行っており、社員の教育やオフィス業務に適用してきた。ゲーミフィケーションの弱点は、やっていると飽きが出てくること、また、個人によってゲームの好みが違うことである。そこで、AIを使ってその人が夢中になっているかどうか推測し、楽しくなさそうならゲームのルールを変更したり、興味を持ちそうなコンテンツに切り替えたりできれば、ゲーミフィケーションの欠点を補うことができる。  コールセンターのオペレーター向けゲーミフィケーションでは、平均対応時間が短ければ短いほどポイントが多くもらえたり、対応の数をこなせばこなすほどポイントがもらえたりする。つまり、この例では原価削減を目的としたルールが設定されているのである。””
 
 
 
 
””ロボット上司の登場  先ほど説明したとおり、人的管理の領域でAIを使うメリットとして、自動化によるコスト削減、客観的な採用基準の確立の他に、高い公平性が挙げられる。職場ではどうしても、「自分のほうがよく働いているのに何で、あの人が仕切るのだろうか」「この人はいつもえこひいきされている」と、不満を抱く従業員が出てくる。このため、人事評価や、給料や昇進の決定は、人間の上司が行うよりもAIが行ったほうが、公平で納得感が高いとする声もある。  AIが上司の代わりになるというと違和感があるかもしれないが、調査会社であるガートナーは「2018年までに、300万人以上の労働者がロボット上司の指示を仰ぐようになる」という予測さえしている。  米国マサチューセッツ工科大学が行った、人間とロボットの共存に関する研究でも、AIが指示命令を行うほうが作業者の満足度が高まるという結果が出ている。この実験は製造現場で行われ、人間2人とロボット1台を3回に分けて作業をさせている。1回目は、すべてのタスクを1人の人間が割り振る。2回目はロボットが全タスクを振り分ける。3回目は、人間1人は自分のタスクを自分で割り振り、ロボットが残りのもう1人に対してタスクを振り分ける。結果は、2回目のロボットが全タスクを仕切るパターンが最も効率がよく、さらに被験者の満足度も最も高かった。  このような結果になった原因は、AIにより待ち時間や無駄がなくなり最適化された点と、ロボットがタスクを割り振ったため公平に感じた点の両方が考えられる。  ネガティブなコメントをするときにも、上司に「ここができていない」といわれるよりも、ロボットに指摘されたほうが客観的事実として受け入れやすかったり、逆に指摘が間違っていてもロボットだから仕方ないと許せたりする。このようにAIは人の感情に関する部分でも活躍していく可能性がある。
 
 
 
 
””AIは継続的に育てる必要がある  AIはパッケージソフトのように買ってきて導入すれば、すぐに成果を出せるものではない。クラウドで提供されているAIだとしても、導入する前に様々な作業が必要となる。実際にAIを動かすには、指定のフォーマットに合わせてデータを変換したり、AIの性能を劣化させるゴミデータを消したりする作業が必要になる。この作業には、それほど高度な技術や数学の知識は必要ないが、それでもうまく行うにはそれなりの経験が必要であり、時間もかかる。このため、手軽にクラウドサービスを始めるようなイメージでAI導入に臨むのではなく、AIを継続的に育てると考える必要がある。  案件によっても異なるが、簡単な実験を行うのに3~6ヵ月程度かかる。極端な場合、AIを入れたいがデータが揃っていないため、最初の1年間でデータを収集し、2年目にAIの開発と評価を行い、3年目に実システムを開発するといったスケジュールを立てることもある。””
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

理想と現実の狭間~AI革命前夜と経営者の視座~

 

 

本書は、頑張ってる風な日本人(自分含め)に、理想と現実を突きつけてくれる超生身感のある辛辣な示唆に溢れている。

 

”” しょせん当たらない予測に時間とカネを使うことよりも、予測不可能なイノベーションがもたらす変化に迅速かつ鮮烈に対応できる組織能力、経営能力、すなわちWhen、How、Whoに関わるもっと根源的な戦闘能力を高めておくことのほうが、革命期においては重要な意味を持つ。あなたの企業、そしてあなた自身は、十分な戦闘能力を備えているのか。””

そもそも、見方次第では、排他的な発言をなさる著者の思想からすれば、自然な表現ではあるけれども、冒頭から、言い訳しようのないロジカルでエモーショナルな、論理的であるのに感情的とも受け取れる言葉で僕のような””頑張ってる風な””日本人を追い込む。そして、そのティッピングポイントとしてのGの世界とLの世界、グローバルに生きるのか?ローカルに生きるのか?ということを排他的ではないスタンス、切り口で、分相応な選択肢を提供する。

”” 真のグローバル人材を目指すには  自分の生き方のゴールをどこに設定するのかがすごく大事になってきた。業種や職種による違いもあるが、もう一つの大きな軸として、グローバルなゴールを目指すのか、ローカルな世界の中に生きがいを見出すのか。自分なりに考えて決める必要がある。  ローカルな世界で生きていくと決めてしまえば、高いお金を払ってベルリッツに通う必要はなくなる。””

確かに迷う理由なんて無いのだろうか?僕が言うには、人間そんなに単純じゃない。でも、著者の言うとおり、自分の生き方のゴール設定次第で、どうありたいか?何をしたいか?を決めれば良いと改めて思うのである。

””そもそもみんなが「グローバル人材」を目指す必要はあるか  ここまで若い世代へのエールという気持ちも込めて「真のグローバル人材」について書いてきた。しかし、冷静に考えてみると、グローバルな競争の舞台、あるいはグローバル競争を主戦場にしているビジネスで成功するためのハードルは、メチャクチャ高くなっている中、皆がその道をひたすら目指すと、下手をすると死屍累々の世界を作ることになってしまわないか、という懸念がどうしても頭をもたげてくる。  ここ数十年、「グローバル化」がキーワードになってから、この国の教育や人材育成は、「グローバル人材」になれないと生き残れない、あるいは二流の人生しか送れないかのような強迫観念に追い立てられてきた感がある。私もかつては同じような思い込みに取りつかれている部分があった。  しかし、産業再生機構時代に地域のバス会社、物流会社、旅館、スーパーマーケットなど、ローカル経済圏で活動している企業の再生やそこに生きる人々と深いかかわりを持つようになって、この強迫観念に大きな疑問を持つようになった。ローカルな世界にはローカルな価値観があり、ローカルな一流があり、生きがいや幸福がある。どの国に行っても、いわゆるグローバル化が進展しても、生身の人間は地域に住み、日常の生活基盤はローカルな経済社会圏である。そして、前にも触れたように、先進国ほどローカル型の産業、企業で働いている人はむしろどんどん増えている。””

 

””人間にとって快適なことが仕事になる””

 

なんだろう?快適なことって???

そのようなことを、思い詰めて考えるまでもなく、自然と答えは見えてくるのかもしれない、というのが最近の自分の考えである。

 

””そのうち、わざわざお金を払って一生懸命計算をする計算クラブができたり、検索すれば済むのに、あえて記憶だけに頼ったクイズクラブのようなものができたりするかもしれない。  もし完全自動運転が実現すると、確実に生まれそうなのは、乗馬クラブならぬ乗車クラブだ。サーキットに自分の車を置いておいて、わざわざ運転するためにそこに行く。自動運転が本格的に普及すると、人間は公道では運転禁止になるかもしれない。そうなれば、車を運転することは高価な趣味になるだろう。馬が日常的な移動手段だった時代にはなかった乗馬クラブが、自動車の時代になって登場したのと同じことが、今回も繰り返されるという予測である。””

 

 

 

 

もう、本当に、この通りで、たった、僕が生きてきた5年ほどのベトナム生活の中で、明らかに増え続けているベトナム人による、健康産業の高まり、至る所にジムが増え続けている空気感、これは、日本でも、韓国でも、変わらぬ光景なんじゃないかと思います。

 

ベトナムでは、まだまだ肥満体質の人は少ないものの、現時点で、すでに、意識高そうな方々が、日々日々、信じられないくらいに自分を追い込み、鍛え上げ続けている。

 

人間の本性として、AI的な、非人間的なものが盛り上がろうと、人間の本能に根ざした活動が、増え続けることは間違いないんじゃないかと改めて思い立つのでした。

 

 

 

 

 

 

 

浪漫に満ち溢れた未来。~〈インターネット〉の次に来るもの 未来を決める12の法則 、ケヴィン・ケリー~

 

 

””しかし、しかし……ここで重要なことがある。インターネットに関してはまだ何も始まっていないのだ! インターネットはまだその始まりの始まりに過ぎない。それは何より〈なっていく〉ものなのだ。もしわれわれがタイムマシンに乗って30年後に行って、現在を振り返ってみたとすると、2050年の市民の生活を支えているすばらしいプロダクトのほとんどは、2016年には出現していないことに気づくだろう。未来の人々はホロデックやウェアラブルなVRコンタクトレンズ、ダウンロードできるアバター、AIインターフェースなどを見ながら、「あぁ、あの頃には、インターネット(その頃は何と呼んでいるのか知らないが)なんて、まるでなかったんだね」と言うだろう。

2050年の年寄りたちはあなたにこう語りかけるだろう。2016年当時にもしイノベーターでいられたなら、どんなにすごかったか想像できるかね、と。そこは広く開かれたフロンティアだったんだ! どんな分野のものも自由に選んで、ちょっとAI機能を付けて、クラウドに置いておくだけでよかったんだよ! 当時の装置のほとんどには、センサーがいまのように何百じゃなくて、一つか二つしか入っていなかった。期待値や障壁は低かった。一番になるのは簡単だった。そして彼らは「当時は何もかもが可能だった。そのことに気づいてさえいれば!」と嘆くのだ。””

 

なんてロマンチックなのだろう。これ以上の浪漫があるのだろうか。この世界の多くの人達は、只ならぬ変化の真っ只中にいることを、何となく分かっていても、何をすれば良いのかわからない。どうすれば比類なき、このビックウェーブに最高のタイミングで乗れるのかわからない。失敗して苦しむくらいなら様子を見る。要するに、波に巻き込まれて溺れ死ぬような度胸もない。だから慎重に慎重に最高のタイミングを見計らって、何度も乗り過ごしてる。見過ごしてる。

 

上手くうまく大波に乗って英雄になったサーファーたちに憧れ、時に嫉妬する。すでに何度も繰り返してきた光景だった。大きなうねりがある。今までに見たことがない大きな波になるかもしれない。今から準備しておけば、、、今しかない、、、そうやってパドリングをはじめる、パドリングを始めた瞬間、色々なことが頭に浮かんでくる、待てよ、、、体調は万全か?本当にここ波で良いのか?次の波の方が大きな波かもしれない、みんなもこの波を待ちわびていたんじゃないか?ライバルが多すぎるんじゃないか?そうだ、次の波まで待とう、そしたらライバルが少ないかもしれない、そうだそうだ。そんな都合の良い解釈を繰り返してきた。そんな自分の解釈に嫌気がさしている。もう十分に、待ちわびてきたじゃないか。そんな臆病な僕達に、賢者が語りかけてくれる。

 

“”居心地が悪くない世界はユートピアだ。しかしその世界は停滞している。ある観点から完全に正当に思える世界は、他の観点からは恐ろしく不公平だ。ユートピアには解決すべき問題はないが、チャンスもない。  ユートピアは絶対に上手くいかないので、われわれはこうした「ユートピアのパラドクス」に悩む必要はない。ユートピアのシナリオには、どれも自己崩壊につながる欠陥があるからだ。ユートピアに対する私の反感はさらに根深い。自分が住みたいと思えるような、想像上のユートピアにいままで出合った試しがない。どれも私には退屈なのだ。その正反対のディストピアの方が、よっぽど面白い。それに、想像するのもずっとやさしい。

地上に最後の一人しか残っていない黙示録さながらの世界や、ロボットの大君主が支配する世界、徐々にスラム街へと崩壊していく地球規模のメガシティーを想像できない人はいないし、最も簡単なシナリオとしては、核戦争によるアルマゲドンが考えられるだろう。現代文明が崩壊する可能性なら、いくらでも列挙できる。しかし、映画にできそうなドラマチックな話題で、想像するのがずっと容易だからといって、ディストピアが起こるかもしれないというわけではない。””

 

僕なりに解釈すると、僕達が妄想するようなユートピアや、ディストピアは極端なものであって、複雑に見えるこの世界は、いわゆる見えざる手のような何らかの生態系によってバランスされ、着地していくだろう、と。

 

“”プロトピアは〈なっていく〉ものなので、それ自体を見るのは難しい。それはプロセスであり、他のものの変化に常に影響を与え、自分自身を変え、変異しながら育っていく。変わり続けるゆるやかなプロセスに喝采を送るのは確かに難しい。でもそれが見えていくかどうかは重要だ。””

 

だけど、何らかのバランスされた秩序、無秩序な世界を、プロセスを見ようとするべきだし、見えていることは重要だよ、と示唆してくれている。

 

“”つまりこういうことだ。いまここですぐに、2016年から始めるのがベストだということだ。歴史上、何かを発明するのにこんなに良いときはない。いままでこれほどのチャンスや、いろいろな始まりや、低い障壁や、リスクと利得の格差や、収益の高さや成長が見込めるタイミングはなかった。いまこの瞬間に始めるべきだ。いまこそが、未来の人々が振り返って、「あの頃に生きて戻れれば!」と言うときなのだ。””

 

 

というわけで、素晴らしい機会に恵まれた時代に生きているなあ、と感謝しつつ、今、目の前にある幸せを噛みしめつつ、大それたことに、思いを馳せる前に、まずは何より、身の回りの事業やお客さん、共に働く仲間、友達、家族を大事にしていかないとな、と考えさせられる日曜の昼下がりでした。

 

 

 

 

【抜粋】

★われわれはAIについて、それが何を意味するのかを再定義してこなかった──人間にとってどういう意味があるかということだけを再定義してきたのだ。過去60年以上にわたり、人間に固有だと考えてきた振る舞いや才能を、機械的プロセスがそっくり再現してきたことで、われわれをそれらと分かつものは何かと絶えず考えてこなくてはならなかった。より多くの種類のAIが発明されれば、人間に固有だと思われていたものをさらに放棄せざるを得なくなるだろう。われわれだけがチェスを指せる、飛行機を操縦できる、音楽を作曲できる、数学の法則を発明できる、という考えを一つひとつ放棄することは、苦痛に満ちた悲しみだろう。これからの30年、もしくは次の世紀まで、人間は一体何に秀でているのかと、絶えずアイデンティティーの危機に晒されることになるだろう。もし自分が唯一無二の道具職人でないなら、あるいはアーティストや倫理学者でないならば、人間を人間たらしめるものはいったい何だろうか? 極めつけの皮肉は、日々の生活で役立つAIのもたらす最大の恩恵が、効率性の増大や潤沢さに根ざした経済、あるいは科学の新しい手法といったものではないことだ。もちろんそうしたことはすべて起こるだろうが、AIの到来による最大の恩恵は、それが人間性を定義することを手助けしてくれることだ。われわれは、自分が何者であるかを知るためにAIが必要なのだ。

 

★これはマシンとの競争ではない。もし競争したらわれわれは負けてしまう。これはマシンと共同して行なう競争なのだ。あなたの将来の給料は、ロボットといかに協調して働けるかにかかっている。あなたの同僚の9割方は、見えないマシンとなるだろう。それら抜きでは、あなたはほとんど何もできなくなるだろう。そして、あなたが行なうこととマシンが行なうことの境界線がぼやけてくる。あなたはもはや、少なくとも最初のうちは、それを仕事だとは思えないかもしれない。なぜなら退屈で面倒な仕事は管理者がロボットに割り振ってしまうからだ。  われわれはロボットに肩代わりしてもらう必要がある。政治家たちがいま、ロボットから守ろうとしている仕事のほとんどは、朝起きてさあやろうとは誰も思えないものだ。ロボットが行なう仕事は、われわれがいままでやってきて、彼らの方がもっと上手にできる分野のものだ。彼らはわれわれがまるでできない仕事もやってくれる。必要だとは想像もしなかった仕事もやってくれる。そうすることで、われわれが新しい仕事を自分たちのために見つけるのを手伝ってくれる。その新しい仕事が、われわれ自身を拡張していくのだ。ロボットのおかげで、われわれはもっと人間らしい仕事に集中できる。  それは不可避だ。ロボットたちには仕事を肩代わりしてもらい、本当に大切な仕事を頭に描くのを手助けしてもらおう。

 

★経験の価値は上がり続けている。高級なエンターテインメントは毎年%伸びている[222]。レストランやバーの利用は、2015年だけでも9%伸びた[223]。一般的なコンサートのチケット価格は、1981年から2012年までの間に400%伸びた[224]。これはアメリカにおける医療介護についても同じだ。それは1982年から2014年の間に400%伸びた[225]。アメリカにおけるベビーシッターの価格は時間当たり15ドルだが、これは最低賃金の2倍だ[226]。アメリカの大都市では両親が夜間に外出するとき、子どもの世話を頼むのに100ドルを払うのは当たり前だ。身体の経験そのものに個人的な注目を集中して振り向けるパーソナルコーチは、一番成長が著しい仕事だ。ホスピスでは、薬や治療の価格は下がっているが、在宅訪問といった経験が絡むものは高くなっている[227]。結婚式のコストは上限がない。それらはコモディティーではなく経験なのだ。われわれはそうしたものに、希少で純粋な注意を向けている。こうした経験をデザインするクリエーターにとって、われわれのアテンションには大いに価値がある。経験を創造したり消費したりするのに人間が優れているのも偶然ではない。そこにはロボットが出る幕はない。

 

★没入環境やVRの世界も将来は不可避的に、以前の状態に戻れるようになるだろう。実際のところ、デジタルであれば何でも、リミックスされるのと同様、やり直しや巻き戻し可能性を持つだろう。  もっと先の話としては、われわれはやり直しボタンが付いていない経験に我慢できなくなっていくだろう──たとえば食事といったものに。実際には食事の味や匂いを再度表現することはできない。でもそれが可能になったら、料理の世界を変えてしまうだろう。

 

★セカンドライフの成功は、想像力に富んだ仲間同士で交流できることで高まったが、社会の熱がモバイルに移行すると、スマートフォンではセカンドライフの洗練された3D世界を処理できず、多くのユーザーが他に移ってしまった。マインクラフトにはさらに多くの人が流れていった──高解像度ではないためスマートフォンでも使えたからだ。しかしセカンドライフに忠実なユーザーはいまだに何百万人もいて、想像上の3D世界の中を常時約5万のアバターが歩き回っている[255]。そのうちの半分はバーチャル・セックスをするためで[256]、それはリアルさを求めるというより付き合いに重点が置かれたものだ。セカンドライフの創設者フィル・ローズデールは数年前に新しいVRの会社を立ち上げ、オープンな擬似世界が生み出す社会的可能性を利用し、もっと納得できるVRを発明しようとしている。

 

★われわれと人工物との間のインタラクションが増えることで、人工物を物体として愛でるようになる。インタラクティブであればあるほど、それは美しく聞こえ、美しく感じられなければならないのだ。長時間使う場合、その工芸的な仕上がりが重要になる。アップルはこうした欲求がインタラクティブな製品に向けられていると気づいた最初の企業だ。アップルウォッチの金の縁取りは感じるためのものだ。結局われわれは、毎日、毎週、何時間もアイパッドをなで回し、その魔法のような表面に指を走らせ、スクリーンに目を凝らすことになる。デバイスの表面のなめらかな感触、流れるような輝き、その温かみや無機質さ、作りの仕上がり、光の温度感などが、われわれにとって大きな意味を持つようになるのだ。

 

★安価で潤沢になったVRは、経験の生産工場になるだろう。生身の人間が行くには危険過ぎる環境──戦場、深海、火山といった場所──を訪れることもできる。人間が行くことが難しいお腹の中や彗星の表面といった場所も経験できる。それに、性転換したり、ロブスターになったりもできる。また、ヒマラヤの上空を飛び回るような非常にお金がかかる経験も安価にできる。しかし経験というのは一般的に持続するものではない。われわれが旅行の経験を楽しめるのは、そこを訪れるのが短い期間だからでもある。VRの経験も、少なくとも当初は、ちょっと試してみる程度のものになるだろう。そのプレゼンスはあまりに強烈なので、ほんの少しだけ楽しめればいいとわれわれは思うかもしれない。それでも、われわれがインタラクションを強く求めるものに対しては際限がない。  こうした大規模ビデオゲームは、新しいインタラクションの草分けだ。無限の地平によって提示される完全にインタラクティブな自由は、こうしたゲームが生み出す幻覚だ。プレーヤーや観客は、やり遂げるべき任務を与えられ、最後までたどり着くように動機付けされる。ゲームでのそれぞれの行動が、物語全体の中で次の難関へとプレーヤーを導く仕掛けになっており、そうやってゲームの設定した運命がだんだんと明らかになるのだが、それでもプレーヤー個々の選択は、どんな種類のポイントを獲得していくかという点で意味がある。この世界全体にはある傾向があり、あなたが何度その中を探検したとしても、最後にはある不可避な出来事に行き当たるようになっている。運命付けられた話の展開と、自由意思で行なうインタラクションが正しいバランスになれば、「ゲームで遊んだ」という素晴らしい感覚が得られる──自分がより大きな何かの一部になって前に進んでいるが(ゲームの物語性)、それでもまだ自分が舵を握っている(ゲームのプレー性)という甘美な感覚が生まれるのだ。

 

★AIはVRやARの中にも別の形で入り込んでいる。あなたが実際に立っている物理的世界を見てマッピングすることで、あなたを合成された世界に運ぶのに使われるのだ。それにはあなたの物理的な身体の動きのデータも含まれる。AIは例えばオフィスであなたが座ったり立ったり動き回ったりしているのを、特別なトラッキング装置がなくても観察し、それをバーチャル世界に反映することができる。AIは合成された世界の中でのあなたの進む道筋を読んで、まるでちょっとした神のように、ある方向へと導くのに必要な手出しをするのだ。

 

★われわれが日中のほとんどの時間を過ごすこのセンサーだらけの現実世界を非バーチャルVRだと考えてみよう。周囲からトラッキングされ、また実際には自分でも定量化された自己をトラッキングしているので、VRと同じインタラクションの手法が使えるのだ。たとえば、VRで使うのと同じジェスチャーで、家電や自動車とコミュニケーションが取れる。インセンティブを作り出すゲーミフィケーションの手法を使えば、実際の生活でも参加者を好ましい方向に誘導することができる。日常生活がすべてトラッキングされているので、正しく歯磨きができたり、1万歩歩いたり、安全運転をしたりするたびにポイントが溜まる。クイズでいちいち良い得点を競わなくても、あなたのレベルは日々上がっていく。ゴミを拾ったり、リサイクルしたりすればポイントが得られる。VRの世界ばかりか、日常生活もゲーム化できるのだ。

 

★人間の一生のうちに社会に破壊的変化を起こす最初の技術的プラットフォームがパソコンだった。モバイルがその次のプラットフォームで、これは数十年のうちにすべてを革命的に変えてしまった。次に破壊的変化を起こすプラットフォームがVRで、まさにいま訪れようとしている。それではVRやARにプラグインするすぐ目の前の未来の1日について見てみよう。

★私はVRの中にいるが、頭には何も被っていない。2016年まで遡ってみて驚くのは、ベーシックで十分なARを体験するのに、ゴーグルやメガネさえ要らないことを予想していた人がほとんどいなかったことだ。部屋の隅の小さな光源から目に直接、3D映像が投影されるため、顔の前には何も着ける必要がない。VRのアプリは何万もあるが、ほとんどの場合これでクオリティーは十分だ。  ごく初期に私が入れたアプリは、ID情報のオーバーレイ・サービスだった。人の顔を認識し、彼らの名前や所属や、私との関係があればそれを表示してくれるものだ。いまではこれに慣れてしまい、外に行くときもこれなしには出かけられない。友人たちは、知らない人の素性でもすぐ分かる非正規IDアプリを使っているが、その場合、相手に失礼にならないように、自分が見ている表示が自分にしか分からないようなギアを着ける必要がある。

 

★私は友人から個人として扱われたい。こうした関係を保つには、友人が私のことを十分に理解して個人として付き合ってくれるよう、開放的で透明性を保ち、人生をシェアしなくてはならない。私は会社やお店にも自分を個人として扱ってほしいので、彼らが対個人として振る舞えるよう、開放的で透明性を保ち、情報をシェアしなければならない。政府にも個人として扱ってほしいので、そのために個人情報を開示しなければならない。パーソナライズすることと透明性を保つことには一対一の関係がある。よりパーソナライズするにはより透明性を持たなくてはならない。究極のパーソナライズ(虚栄)には、究極の透明性(プライバシーはない)が必要だ。もし友人や機関に対してプライバシーを保ち不透明な存在でありたいなら、自分という固有の条件は無視され、通り一遍の扱いを受けることを容認しなくてはならない。そうすれば、私は一般人のままだ。

 

★現在のソーシャルメディアが教えてくれるのは、シェアしたいという人類の衝動が、プライバシーを守りたいという気持ちを上回っているということだ。これは専門家をも驚かせた。今までのところ、選択ができる分岐点に来るたびに、われわれは平均的にはよりシェアし、よりオープンで透明な方向へと向かう傾向にある。それを一言で表すならこうだ──虚栄がプライバシーを凌駕している。

 

★夢が何のためにあるのかは分かっていないが、唯一言えるのは意識の根源的な欲求を満たしているということだ。私がウェブをサーフィンしているのを見た人は、次々と提示されたリンクをただたどっている姿を見て、白日夢を見ているようだと思うはずだ。最近私はウェブの中で、人々に混ざって裸足の男が土を食べているのを取り囲んで見ていたり、歌っている少年の顔が溶け出すのを見たり、サンタクロースがクリスマスツリーを燃やしたり、世界で最も高所にある泥の家の中を漂っていたり、ケルトの結び目文字が自然に解けたり、ある男から透明なガラスの作り方の講釈を受けたり、その次には自分自身を眺めていて、それは高校時代のことで、自転車に乗っているという具合だった。しかもそれは、私がある朝に数分間ウェブをサーフィンしていた間に見た話だ。どこに行くのかも分からないリンクをたどってトランス状態に陥るのは、大変な時間の無駄をして──あるいは夢を見て──いるように思えるかもしれないが、とても生産的な時間の無駄遣いなのかもしれない。多分われわれは、ウェブをうろついている間、集合的な無意識の中に入り込んでいるのだ。きっと、個々にクリックするものは違っても、このクリックが誘う夢はわれわれ全員が同じ夢を見るための方法なのだ。

 

★この新しいあり方──波を乗りこなし、飛び込み、駆け上がり、ビットからビットへ飛び回り、ツイッターでつぶやき、新しいことに難なく入り込み、白日夢を見て、あらゆる事実に一つひとつ疑問を抱くこと──は決して不具合ではない。そういう機能なのだ。それは押し寄せてくる大海のようなデータ、ニュース、事実に対する正しい反応だ。われわれは流動的でしなやかに、アイデアからアイデアへと渡っていくべきだ。というのも流動的であることが、われわれを取り巻く荒れ狂う情報環境への答えだからだ。こうした態度は何もせずに失敗することでも、贅沢に溺れることでもない。それは前に進むために必要なことなのだ。白いしぶきを上げる激流でカヤックを操るには、水の流れと同じぐらい迅速に漕がなくてはならないし、変化しながらあなたに向かって崩れてくるエクサバイト級の情報の波を乗り切るには、その波頭と同じ速さで流れていかなくてはならない。

これから何千年もしたら、歴史家は過去を振り返って、われわれがいる3000年紀の始まる時期を見て、驚くべき時代だったと思うだろう。この惑星の住人が互いにリンクし、初めて一つのとても大きなものになった時代なのだ。その後にこのとても大きな何かはさらに大きくなるのだが、あなたや私はそれが始まった時期に生きている。未来の人々は、われわれが見ているこの始まりに立ち会いたかったと羨むだろう。

 

★その頃から人間は、不活性な物体にちょっとした知能を加え始め、それらをマシン知能のクラウドに編み上げ、その何十億もの心をリンクさせて一つの超知能にしていったのだ。それはこの惑星のそれまでの歴史で最も大きく最も複雑で驚くべき出来事だったとされるだろう。ガラスや銅や空中の電波で作られた神経を組み上げて、われわれの種はすべての地域、すべてのプロセス、すべての人々、すべての人工物、すべてのセンサー、すべての事実や概念をつなぎ合わせ、そこから想像もできなかった複雑さを持つ巨大ネットワークを作ったのだ。この初期のネットから文明の協働型インターフェースが誕生し、それまでのどんな発明をも凌駕する、感覚と認知機能を持つ装置が生まれる。この巨大な発明、この生命体、このマシンとでも呼ぶべきものは、これまで他のマシンが作り上げてきたものをすべて包含し、実際にはたった一つの存在となってわれわれの生活の隅々にまで浸透し、われわれのアイデンティティーにとってなくてはならないものになる。このとても大きなものは、それまでの種に対して新しい考え方(完璧な検索、完全な記憶、惑星規模の知的能力)と新しい精神をもたらす。それは始まっていく

パーソナル・コンピューターの命名者でもあるアラン・ケイが言ったように、「未来は予測するものではなく発明するもの」であるなら、本書が述べるように「最高にカッコいいものはまだ発明されていない。今日こそが本当に、広く開かれたフロンティアなのだ。……人間の歴史の中で、これほど始めるのに最高のときはない」と考えることで、われわれは誰もが同じスタート地点に立って、この混迷した時代にきちんと前を向いて未来を変えていくことができるのではないだろうかと思う。